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邪馬台国と賢者の石:神武天皇は錬金術師だった!/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2016年11月1日 7時0分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

天皇の東征


 十拳(とつか)剣(つるぎ)を差し出して高天原(たかまがはら)入りを許されたスサノオだったが、あまりに粗暴で、ここを追われる。この後、彼は出雲でヤマタの大蛇(おろち)を退治し、大山積(やまつみ)の子である足名椎(あしなづち)の娘、クシナダ姫を守り、これを嫁として根の国(吉備)で暮らす。


 一方、ナムジは、兄たちに疎まれ、焼いた火の石だの、大木の割れ目だので殺されかかり、根の国に逃げてきてスセリビ姫と相思相愛に。父のスサノオは蛇・百足・蜂・野火などの試練を課すが、ナムジがこの試練を乗り越え、うまくスセリビ姫を連れて逃げおおせたので、これを大国主として祝った。


 この後、大国主は国造りに励んだが、高天原の天照(あまてらす)らは、自分たちこそがその新しい国を治めるのが当然だ、と、強引に献上を迫り、大国主に認めさせた。そして、天照は、天磐船(あめのいわふね)でニニギを宮崎の高千穂に、ニギハヤヒを大阪の哮ヶ峯(たけるがみね、生駒山系北端、現磐船神社)に降臨させる。


 高千穂宮のイワレ(45歳、後の初代神武天皇)は、すでにニギハヤヒが畿内にいるのを知り、兄のイツセとともに東征。とりあえず宇佐(うさ)に行き、北九州市黒崎の岡田宮、広島、吉備を経て、数年がかりで大阪へ。ところが、ニギハヤヒの義兄、長髄(ながすね)彦が抵抗、イツセは矢に当たって傷を負う。イツセが言うに、我ら日の神子が日に向かって戦ったのがまずかった、と。


 彼らは南へ逃れるも、現和歌山市でイツセが死去。弟のイワレはさらに南下して、スサノオを祀る熊野で霊剣「布都(ふつ)御魂(みたま)」を手に入れ、また、スサノオに仕える三本足の八咫(やた、巨大な)烏(がらす)に導かれ、オシヒ(後の道臣、厳姫、つまり女性。大伴氏の祖)が弓矢を担いで、奈良山中を北上、九月(いまの10月)、宇陀(うだ)の高倉山(現城山)に至る。しかし、長髄彦らは大軍とともに国見丘(現経ヶ塚山)に陣を張っていた。


真っ赤な丹の国


 この神話を実際の歴史と突き合わせるには、ヒミコと邪馬台国をどこかに挟まないといけない。邪馬台国のヒミコは、『魏志倭人伝』で、238年に親魏倭王に封ぜられた、とされている。『魏志倭人伝』は、呉の滅亡後、290年頃に書かれたものだが、ここに倭国の地理や生活も書かれている。


 その中に「出真珠青玉、其山有丹」とある。真珠は真珠、青玉は不純物を含む石英で、松江の玉造石のようなもの。重要なのは、丹だ。真っ赤な硫化水銀。辰州(現湖南省懐化市、長沙市の西2百キロ)で採れたので、辰砂(しんしゃ)とも呼ばれる。しかし、その結晶は、真っ赤な透き通る鉱石。これが錬金術の「賢者の石」の正体。


 不老長寿の霊薬。水銀というと、すぐに中毒を連想するが、保険の虫歯治療では、いまでも安価な水銀合金(アマルガム)。薬としても、赤チン(ヨーチンとは別のもの)、マーキュロクロム液は、皮膚浸透性の低い有機水銀を使っていた。まして、辰砂、硫化水銀は無機で、気化しないかぎり、ほとんど人体は吸収しない。とはいえ、水銀は常温でもかんたんに気化してしまうのだが。


 朱塗りの椀も、高級品はほんものの丹を使っている。というのも、丹は圧倒的な殺菌力があるからだ。ほんものの丹を塗れば、鳥居でも、ミイラでも、絶対に腐らない。直接に飲めば、傷も癒え、病気も治まり、鎮痛や鎮静にも効く、と信じられた。実際、昔は傷そのものより破傷風のような感染症での悪化死亡が多かったであろうし、抗生物質も無い時代、硫化水銀が特効薬となった細菌性の病気も少なくはなかっただろう。そして、『魏志倭人伝』によれば、中国人のおしろいのように、倭国の人々は全身を真っ赤に丹を塗ったくっており、長寿で百歳まで生きる、とか。


 なんと魅力的な。だが、水銀は、単体では常温でもかんたんにどんどん気化していってしまう。これを手に入れるには、硫黄と結合している安定した丹の状態でなければならない。そして、水銀が硫黄と結合して丹になるには、火山が必要だ。辰州のあたり、まさに火山地帯なのだが、『魏志倭人伝』のころ、つまり三国志の時代、辰州は西内陸部の蜀の領地。北半の魏が近づくことはできず、丹の入手は非常に困難だった。


 ところが、マルコ・ポーロ『東方見聞録』が黄金の国ジパングの幻想を広めたように、ヒミコの魏への朝貢は、倭が丹の国であることを知らしめてしまった。魏に服従した国で貴重な丹が溢れるほど採れるとなれば、一儲けを企む山師たちが命がけでも行かないわけがない。輝く金色のはずの日の丸が真っ赤なのも、日本が丹の国であったからにほかならない。(日の丸の経緯は、また別の機会に。)


山師たちの利権争い


 いま、日本は山と言えば鬱蒼と木々が生い茂っている様子を思い浮かべるが、古代、燃料と言えば木にきまっており、日本人が火を使うようになってから、村の周辺から山の奥地まで、木という木はガンガンに切り倒して燃して使った。まして土器を焼くとなると、さらに大量の木材を必要とした。その結果、どこもかしこも禿げ山だらけ。日本的風景の象徴の松も、表土を失った荒れ地の結果。山に登れば、すっかすかで、どこまでも遠くを見通せた。


 一方また、この禿げ山は、ただでさえ急な日本の河川の状況を悪化させた。梅雨や台風、雪解のたびに洪水や山崩れが麓の村々まで押し寄せた。例年襲い来る八岐大蛇も、入り組んだ谷筋を流れ下る土石流のことだろう。こうして増え続けた傾斜崩落地は、スサ・スセ・スガ・ソガなどと呼ばれた。


 スサの男(王)の名を持つスサノオは、このような古代日本の荒廃した山間部で、治山の技術を持っていたのだろう。また、傾斜崩落地で鉄を含む花崗岩などを掘り出し、これを斜面水路で砕いて比重差で砂鉄を取り出す鉄穴(かんな)流しで製鉄を行ったと思われる。八岐大蛇の尾から草薙(くさなぎ)剣を取り出した、とされているのも、忌み嫌われる土石流跡地から鉄を取り出したから。そして、高天原に十拳剣を献上したのは、自分の採鉄製鉄を売り込むため。


 ナムジは、穴持と記されたように、鉱山技術者だろう。吉備のスサノオのところで修業し、独立して出雲に移り、大国主となって、国造りに励む。文字通りの土木工事だ。ここに、天の羅摩(かがみ)船で、スクナビコナがやってきて、国造りに協力した。羅摩というのは、ガガイモのことで、10センチほどのロケットのような実をつける。それに乗ってきた一寸法師らしい。とめどなく崩れる禿げ山に、土木工事以外の植林のような治山方法を伝えたのではないか。ほかにも、酒造りや漢方薬などを教えてくれた。


 が、スクナビコナは死んでしまった。大国主が途方に暮れていると、海が光り、神が来て、言う、私を倭の青垣東山上に清め祀れ、と。これが大物主神。大国主自身の知恵と慈悲の象徴らしい。大和の国、初瀬川(大和川上流部)河口の北にそびえる標高467メートルの美しい三輪山。この山体そのものが神。山頂のさらに奥の奥津磐座には巨石群がある。なんにしても、大国主の出雲国は、この三輪山の麓に支領を持った。実際、ここに、縄文から弥生にかけての纒向(まきむく)遺跡がある。しかし、なぜ出雲はいきなり大和に植民領を作ったのか。海から来て、大和に祀れと言ったのはだれか。思うにこれはスクナビコナの遺言ではないか。じつは、初瀬川は、中央構造線上にあって、大量の丹が出るのだ。


 邪馬台国がどこにあったか知らないが、高千穂もこの中央構造線の上。実際、高千穂から30キロほど東北の佐伯市弥生の佐伯鉱山では、戦前まで水銀を掘っていた。高千穂も、全身に塗りたくるほど大量の丹がどこかで出ただろう。だが、その場所は、いまもわかっていない。また、たとえ大量の丹の原石が採れたとしても、この精製には膨大な燃料が必要になる。邪馬台国が大量の丹を作って使っていたとなると、周辺はすっかり禿げ山で、それ以上に原石が出ても精製できなくなっていたはずだ。


 大国主が初瀬川で丹を見つけた話を聞きつけたのか、あちこちの山師たちが動き出す。まず高天原の天照は、出雲の大国主を締め上げて、国を譲らせる。当然、丹の出る支領植民地の大和も、だ。しかし、当初、この出雲領大和がどこか、正確にはわからなかった。そこで、天磐船でニニギを高千穂に、ニギハヤヒを大阪に送り込んだ。天の磐船などというと、まるで飛行機か宇宙船のようだが、なにしろ赤壁の戦いがあった三国志の時代だ。鉄タガなどで補強された外洋用の武装戦艦のことだろう。また、ニニギ、ニギハヤヒの名は、ニギが共通している。おそらくニギは丹生で、丹鉱専門の山師、錬丹師だ。


 だが、高千穂に降りたニニギは、丹鉱を発見できず、もしくは、木材不足で生産拡大が望めず、ニギハヤヒが向かった大阪へイワレを送り込む。イワレは、岩割れ。ニニギの山師、練丹師としての弟子だろう。しかし、イワレは、ニギハヤヒの義兄、長髄彦らに阻まれ、生駒山系を越えられない。この長髄彦、『古事記』だと那賀須泥と書く。ただの族長ではあるまい。もとは村の名だったというが、スサノオと同じ、スガを反転して含んでいる。奈良県北部の登美の丘が本拠地のようだが、奈良や河内で湖沼ベンガラ(鉄バクテリアの代謝生成物)からの製鉄を行って、すでに自前で大量の鉄器を作って持っていた。つまり、山から鉄を取って武器を作る吉備のスサノオの商売がたき。そして、より高い技術を持つ渡来の練丹師、ニギハヤヒを妹婿とし、これに仕えた。


奈良湖と雨山


 奈良盆地は、このころまだ巨大な湖だった。東にも南にも深い後背地を持ち、梅雨や台風で大量の川水が怒濤のごとく流れ込む。おまけに、この湖、西を生駒山系と金剛山系に阻まれ、その間に出口がたった一ヶ所しかない。この竪上の谷(亀の瀬)が数十年ごとに崩落して、大和川を堰き止めてしまい、奈良湖は水位が上がったり、下がったり。当然、その決壊とともに、川下の河内も大洪水に。だが、そのおかげで、奈良湖周辺も、河内も、とても肥沃な土地ができつつあった。


 その奈良湖の東に三輪山がそびえていた。湖面に映る姿は、まさに神とも思えるほど美しかっただろう。また、その西南には3つの島が奈良湖から浮き出ていた。いまの大和三山。199メートルの畝傍(うねび)山、139メートルの耳成(みみなし)山、そして152メートルの天(あまの)香久(かぐ)山。このうち、畝傍と耳成は古い火山噴火口のなごり。奈良に火山?と思うかもしれないが、ここは、中央構造線のすぐ近く。大阪と奈良・和歌山を分ける金剛山、大阪から奈良に抜ける竹内街道の横の二上山なども火山であり、奈良と伊勢の間に広がる住塚山・倶留尊山・大洞山などの室生火山群もあった。もっとも1500万年も前の話。


 一方、天の尊称を冠して歌にもよく歌われる香久山は、山脈末端の浸食と堆積の結果。初瀬川と奈良湖の氾濫と渇水のせいだ。それで、この山(湖に突き出た半島)は、龍神を祀り、卜辞を行い、雨止雨乞をする「雨山」だった。このあたり、蛇(じゃ)つなぎ石をはじめとして、月の誕生石、月輪石、天岩戸神社御神体の四石、麓の天香具山神社本殿裏の三岩、と、わけのわからない御神体の巨石がごろごろ。宇陀の奥地から初瀬川の氾濫で流されてきたもの。また、ここは古来、良質の陶土の採集場所としても知られる。これもまた、たびたびの氾濫のおかげ。


 さて、話は戻って、長髄彦の大軍に大和入りを阻まれた宇陀のイワレ。夢に天津神が現れ、雨山社中の土で八十平瓮(やそひらか、平皿80枚)と厳瓮(いつへ、酒甕)を作って占え、と言う。そこで、将士二人を老人老婆に扮させて土を取って来させ、丹生(にう)に祀る。この丹生は、675年、吉野山中の現丹生川上神社の地とされたが、これは間違い。というより、後の朝廷があえてほんとうの場所を隠すために、まったく別の、離れた贋の場所を捏っち上げた。ほんとうは、宇陀城山の北の榛原(はいばら)の雨師丹生神社と安田談山神社(もともとは出雲の大山積を祀っていた)。


 土を奪ったのは、地霊を味方につけることを意味し、雨山の土で占うのは、その道理だが、平皿80枚と酒甕が焼けるほどの土となると、1立米、数トンにもなり、老人老婆のかっこうをした将士二人が1回で運べるような量ではない。まして、分水嶺の山の頂上には、長髄彦の大軍。この包囲網を越えては無理だ。なにかおかしい。


 じつは、宇陀城山の東、宇陀野で、倭国最大の丹坑大鉱脈をイワレは見つけたのだ。これこそ、大国主が大和に支領を作り、植民してまで探索していたもの。そして、イワレもまた、もとよりこれが目当て。この宇陀野の芳野川(生駒山系の北に出る木津川・名張川・淀川水系の最上流、初瀬川・奈良湖・大和川の水系とは別。最初にニギハヤヒが大阪の生駒山系北端に降りたのは、この水系でも丹鉱石が拾えたから)岸に水分(みまくり)神社というのがあるが、これは、川の分水をするところではなく、丹鉱石を水に沈めて分けるところ。ただ、この後、今度は熱して不純物を浮かし出さないといけない。しかし、その作業に、谷間の宇陀野は向かない。それで、わざわざ丹鉱石を城山の北に開けた榛原まで運び出し、文字通りここが灰原になるまで周辺の木々を燃料にして焼き尽くしたのだろう。


 雨山社中の土を盗るには盗って来たにしても、もとよりその土で皿や甕すべてを作る必要はなかった。重要なのは、雨山の占いだ。イワレは、平皿で水なしで飴が作れるか、甕を川に沈めて鮎(占いの魚)が酔って流れるか、この二つがクリアできれば、自分は鉾刃の威を借りずして天下を取れる、とした。この飴、タガネと読む。ふつうの飴ではない。丹から取った水銀の合金、アマルガムだ。また、甕に入っていたのは、水溶性で超猛毒の二塩化水銀、「昇汞(しょうこう)」だろう。水に薄めても、ほんの一滴飲んだだけで大人が即死。指先に触れただけでもヤケドし、神経麻痺を起こす。


 なぜこんな占いをしたか、というと、丹は丹で赤くても、真朱辰沙ではないまがいもの、丹土(あかつち)、鉛丹(四酸化三鉛)や鉄丹(三酸化二鉄)などがよくあったから。そして、この二つの実験で、この地にあるのが本物の丹であることが確かめられた。本物の丹が手に入れば、鉾刃の威を借りずして天下を取れる、とイワレが言うのも当然。これを大陸に持ち帰れば、天下が買えるほどのカネになる。おまけに、奈良湖につながる初瀬川の上流地域にいて、水溶性で超猛毒の昇汞がいくらでも作れるのなら、これを川に流すだけで、奈良湖畔から河内まで、倭の原住民たちを皆殺しにできる。イワレは、神に甕を供え、弓矢運びの女性オシヒ(大伴氏の祖)をその巫女とした。


神武天皇の大和征服


 冬十月一日(いまの10月末)、イワレは、みずからこの甕の粮(おもの)を嘗め、兵を整えて出撃。だが、中身が二塩化水銀のとげとげの結晶だったら、嘗めたら死んでいる。二塩化水銀の昇汞は先に水に流してしまっているので、神に供えていたのは精製した辰砂だったのだろう。イワレは、これで自分は不老不死になったと信じていたにちがいない。この日、勇猛に国見丘の大軍を撃破。その後も、さまざまな作戦で、地元豪族連合軍を切り崩していく。


 十二月四日(いまの11月初め)、三輪山の南(現鳥見山)で、いよいよ長髄彦の主力軍と連戦するも膠着。氷雨降る中、イワレの弓の先に黄金の鳶が降り立ち、光り輝いたとか。よく絵に描かれる場面だ。これ見て、長髄彦が使者を送ってきた。我らはすでに神子ニギハヤヒに仕えている。なぜおまえは神子と偽って国を奪おうとするのか、と。これに対し、イワレは、神子は一人ではない。ニギハヤヒが本物の神子なら証拠のものがあるはずだ、それを見せてみろ、と問い返した。長髄彦は、ニギハヤヒの天羽々矢とその步靫(かちゆき、携行矢筒)を掲げた。すると、イワレも、同じ天羽々矢と步靫を示す。長髄彦は畏れつつも、イワレを討とうとした。ところが、ここでニギハヤヒ本人が義兄の長髄彦を殺し、地元軍とともにイワレに降伏帰順した。


 翌年春、葛城(金剛山系)の残党も掃討し、四月一日(いまの四月末)、御所市柏原(現神武天皇社)で、イワレ(51歳)は神武として初代天皇に即位し、畝傍山東麓の橿原(かしわら、現橿原神宮)に宮を作った。高天原を発って6年目のことだった。


 じつは祖地、高千穂も、日の沈む西南に険しい二上山(にじょうさん・ふたかみやま、イザナギ・イザナミになぞらえる)、日の昇る東北に小高い丘の天香久山を擁していた。これを模して、大阪との境にそびえる西の二上山に対し、雨山は天香久山となり、山頂の龍神を国之常立神に代え、天津国の天照大神=太陽信仰の聖地とされる。


 出雲国から移り祀られた三輪山の神、大物主は、なかなかの色好きで、しばしば蛇だの矢だのの姿で降りてきて女と交わる。こうしてできた大物主の娘が、ホト・タタラ・イスズ姫。火炉と製鉄と鋳金という名だ。神武天皇は、この出雲系の娘を皇后とし、天津神と国津神が統合。


 また、帰順したニギハヤヒは、もとより神武天皇と同じ練丹師として、金属の真贋を見分ける能力がある。物部氏の祖として抱えられ、武器の製造保管を司り、布都御魂の剣を祀って石上(いそのかみ)神宮を建てた。これは三輪山の北、同じ山系の北端にあたる(現天理市)。熊野から天皇の弓矢を運んだオシヒは、辰砂の壺を守る厳姫として、大伴氏の祖となる。長髄彦を長としていた地元豪族は、金剛山系の葛城氏を中心に再編され、葛城氏は、この後、何代にも渡って天皇家の外戚として影響力を保ち続ける。


 そして、もともと高天原と直接のつながりを持ち、ひそかに裏からイワレ=神武天皇を支援していたスサノオは、吉備にいながらにして、まんまと鉄製武器作りの商売がたき、長髄彦を潰し、瀬戸内海を往来する渡来人と組んで勢力を拡げ、おそらく大和の辰砂の国外輸出を独占的に仲介し、蘇我氏として朝廷と複雑微妙な関係を持つことになる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大 阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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