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「故郷が台湾である私は日本で異邦人だった」 失われた故郷「台湾」を求める日本人達 湾生シリーズ1 家倉多恵子さん

Japan In-depth / 2016年11月21日 18時0分

父が転勤で基隆市の助役になり、基隆の双葉小学校に転校しました。台北一高女に入ったら、今後は父が桃園に転勤して、桃園から台北へ毎日汽車通学です。艋、板橋、樹林、鶯歌、桃園。通学で通った駅の名前はみんな覚えています。樹林などは本当に名前の通り、林ばかりでしたが、いまは住宅街に開発されてすごいですね。

野嶋:台湾で最後のほうの日々は戦争も激しくなっていましたか。

家倉:高校2年の終わりから3年の始めに空襲がひどくなって、いつ空襲でやられるか分からないので死ぬ時は家族一緒だということで、父のいる花蓮に転校しました。1945年8月の終戦時は女学校4年生で、翌年3月に卒業し、4月に家族みんなで一緒に日本に帰りました。引き揚げる前にまさか今のような台湾と日本が行ったり来たりできる時代が来るなんて思ってもみなかったし、二度と来られないと思っていました。

ですから、花蓮でいちばん高い山に一人で行って、山の上に立って、海から吹いてくる風と波の音をじっと自分の記憶に留めようと思いました。そして日本に戻ってから本当に毎日、毎日、そのことを思い出していました。

戦後、最初に台湾に来たのが、引き揚げから26年ぶりの41歳のときでした。そのときにまで一瞬たりとも、あの時の風の感覚や波の音を忘れないでいました。そのときは台北旅行で親戚も一緒でしたが、どうしても花蓮に行きたかった。当時、向田邦子さんが亡くなった直後で、同じ路線の飛行機に乗ってその山に行きました。そのとき、自分の記憶のなかの風と現実の風がぴったり一致して、その瞬間、記憶がぜんぶ消えてなくなってしまった。人間の記憶は不思議なものですね。その翌日から一切思い出さなくなったのです。記憶が私のなかにとけ込んでしまったような感じです。でも、その記憶に支えられて、引き揚げ後の26年間、日本で頑張ってこられたのだと思います。

野嶋:映画のなかで自分のことを「異邦人」と表現されていましたね。

家倉:日本では自分がどこか違うという感覚がずっとありました。でもそれが何だか分からなかった。だから五木寛之さんの「異邦人」という本を読んで、ああ、自分はこれなんだと思いました。経験した者ではないと理解できないでしょうが、五木寛之さんも満洲からの引揚者です。「自分は死ぬまで異邦人だ」と文章で書いておられました。

戦後のなかで、いつも私なりに、なにか周囲とすべてにちょっと違うと思ってきました。いつもどこか、はみだして、何かあると周囲とぶつかってしまう感覚です。「湾生回家」の映画でみた福井の友人は、「家倉さんがどこか普通と違うと思った理由がやっと分かった」とおっしゃいました。私は、あまり細かいところにこだわらない。そして、思ったことは押し通す。そこがまわりと違うんですね。でも、異邦人という風に自覚してからは、少しは相手に譲るべきだと思ったんですね。そのときは、もう40代です(笑)。

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