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「故郷が台湾である私は日本で異邦人だった」 失われた故郷「台湾」を求める日本人達 湾生シリーズ1 家倉多恵子さん

Japan In-depth / 2016年11月21日 18時0分

野嶋:ここ10年、毎年、台湾に来ているそうですね。

家倉:もうこの年齢で移動もしんどいので、来るたびに最後にしようと思っているのです。でも、最初にこの埔里に来たとき、来たことはないのに、ああ、私はここの人間になりたいと思ったのです。なぜでしょうね?ここには、あしかけ10年通っています。滞在した日数は36ヶ月にもなります。今回は1ヶ月の滞在ですが、1週間で帰る時もあります。

台湾からは10年間分の幸せをもらいました。日本にいるときと全然気分も体調も違います。もともと、体調を崩してひょっとしたらこれで終わりかなというぐらいで、もう一度、生まれた土地のエネルギーと太陽から力をもらえたら、もう少し生きられるのではないかと思って、息子からはやめておけと言われるのを振り切って来ました。

野嶋:戦後の暮らしはいかがでしたか。なぜ台湾に来られなかったのでしょうか。

家倉:台湾に来られなかった26年間は、いろんな面で、余裕のない時代でした。来たいとは思ってもなかなか叶わなかったのです。

引き揚げのとき、花蓮から鹿児島に戻りました。桜島の火山灰が降ってくるなか敦賀まで窓もないような国鉄で走りました。広島を通ったときの焼けただれた状況もはっきり覚えています。当時は原爆が落ちたことさえしらなかった。引き揚げてきた敦賀の街は全部焼けていて、列車から駅でおりたら海まで見えるぐらい何もありませんでした。

母の実家の菩提寺が焼け残っていたので、そこでしばらく暮らしました。お寺の八畳一間で。でもあの時代の日本はひどかった。しょうがないと思いました。台湾からは1000円と夏と冬の衣類二着しか持ち帰られませんでした。

引き揚げ者はとにかく貧乏。お金がない。お寺もやがて追い出されて、バラックみたいな小さな家を建てて、父が敦賀市役所の収入役になり、やっと落ち着きました。あの時代ですから、家では男の子を進学させて父からは「お前は諦めろ、許してくれ」と言われて、進学はさせてもらえなかった。

野嶋:家倉さんにとって故郷とは何ですか。

家倉:住んだところが故郷だということで、一度は敦賀を自分の故郷だと決めて自分に言い聞かせました。でも、台湾に通うようになって、やっぱり故郷は台湾と思いました。戦後生きていても、台湾という故郷を失った喪失感があった。だから、人生の最後に、せめてそれにすがろうと思ったのです。

私が最後に過ごした花連は、東台湾なので右から左までずっと太平洋に面した水平線です。特攻隊が夕方5時ぐらいになるとフィリピンの方に向かって出撃していきます。花蓮の街の上空を3回旋回して最後の空砲を打って、一目散に水平線に消えていきます。毎日彼らを見送っていました。パイロットの人たちとは前の日まで話をしたりしていました。当時は、男女の関係はすごく厳しかったのですが、それでも、学徒出陣で花蓮まで来ている人たちにとって女学生と話をするのが嬉しいので、女学校の裏山のところに話をしに来るのです。学校側も大目にみてくれました。彼らは東京にいたので、台湾の女学生が日に焼けて色が黒いと馬鹿にするんです。「君たちは南洋の土みたいに皮膚が黒い」と言われて、カンカンになって怒ったものです(笑)。

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