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今知る、震災市長のリーダーシップ

Japan In-depth / 2017年9月7日 15時59分

 震災後、福島を訪問した上海の復旦大学の研究者は「中国では考えられない。大災害が起これば中央政府に「助けてくれ」と叫ぶだけだ。日本の実力は地方自治の強さにある」と感想を述べた。私も全く同感だ。

立谷市長は「本当に、この街を復興させたいと思えば、歯を食いしばっても前向きな発言をしなければならない」といい続けている。その理由として「銀行は晴れているときに傘を貸して、嵐が来たら取り返しに来る。人も同じだ」と言う。

東日本大震災や原発事故の被害を強調し、政府に援助を求めれば、確かに周囲は同情してくれるだろうが、「そんなに酷いなら、私もここを捨てて、他の土地に移住しよう」と思うだけだ。思惑と反対の結果を招く。

立谷氏は、その代わりに、地域住民の視点に立った多くの事業を主導した。医療に関して言えば、内部被曝検査、土壌汚染検査、住民健診だ。何れも地域住民に個別に対応した。厚労省や福島県が「県民健康調査」という調査研究事業を立ち上げたのとは対照的だ。立谷市長が主導した活動は住民を安心させ、外部からの移住者を増やした。一連の活動は、この本の中で紹介されている。

このような事業を支援した早野龍五・東大名誉教授(原子力物理)、渋谷健司・東大教授(国際保健)は、日本を代表する研究者へとプレゼンスを高めた。当研究室の関係者である坪倉正治医師、森田知宏医師、山本佳奈医師などは現地に移り住み、多くの実績を挙げた。彼らの活躍を見て、多くの若手医師や研究者が相馬地方に入っている。

立谷市長のイメージは、素朴で実直という東北人のイメージとはかけ離れている。私は大阪の商売人に近いものを感じる。なぜ、相馬の地に、このような人材が産まれたのだろう。

▲写真:相馬野馬追・本祭り 神旗争奪戦で神旗を持って羊腸の坂を駆け上がる騎馬武者 2005年

出典)Photo by PekePON

立谷姓は、福島県浜通りと宮城県南部に多い。ルーツは相馬郡立谷村だ。そして、その祖は桓武平氏の流れを汲む千葉氏に仕えたという。千葉氏は、常胤(1118-1201)の時代に躍進した。石橋山の合戦で敗れ、安房に逃れた源頼朝に加勢し、鎌倉幕府の大御家人となったのだ。

その後、常胤(1118-1201年)の次男である師常(1139-1205)は、現在の千葉県松戸から我孫子にかけての相馬御厨(荘園)を相続し、相馬氏と称した。1323年、一族の相続争いに敗れた相馬重胤が一族郎党を引き連れ、源頼朝から領有を許されていた陸奥国行方郡(現在の相馬地方)に入った。これが陸奥相馬氏である。この頃、立谷一族も相馬地方に入っている。

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