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核テロへの備え 福島原発事故の教訓

Japan In-depth / 2018年4月16日 0時0分

では、現地に留まったのは、どのような住民なのだろうか。森田医師は「壮年男性と高齢者です」と言う。前者は市役所職員、消防関係者(救急隊員を含む)、病院関係者、建設関係者などだ。後者の存在は示唆に富む。森田医師らの解析では、独居老人、高齢者だけの世帯は、それ以外と比較して1.7倍、1.2倍留まる傾向が高かった。森田医師は、「独居高齢者の中には自主的に留まったというよりも、取り残されたと言った方が適切な人がすくなくありません」という。

「取り残された」のは屋内退避指示地域だけではない。東日本大震災以降、この地で診療を続ける坪倉正治医師は「20キロ圏内の小高区でも自宅に留まった住民がいました。取り残された人もいます。病気になったり、怪我をした高齢者もいました。救急車を呼んでも、政府の方針で救急車は入れませんでした」という。

我々の日常生活は高度な物流システムに依存している。「宅急便」が止まったら、日本社会はどうなるか想像できるだろうか。

このまさかの事態が、原発事故直後の南相馬市を襲った。政府は屋内退避地域に対して、自衛隊などを通じて物資を補充した。ところが、この方法では不十分だった。民間業者が輸送していた物資が入ってこなくなったのだ。

及川友好・南相馬市立総合病院副院長(現院長)は、「震災後、はじめて水や食料などの支援物質が入ったのは3月16日です」という。食事すら入ってこなかった。それまでの5日間は、残った看護師が厨房に入り、残されていたあり合わせの食材で患者向けの食事を用意していた。

看護師は普段、厨房に入らない。彼女たちが厨房に入らざるを得なかった理由は、震災前、南相馬市立総合病院が給食の職員を外部に委託していたからだ。原発事故後、委託先の企業の方針で給食職員14人は全員が引き上げた。同じく外部から派遣されていた医療事務19人、清掃6人、警備6人も会社の方針で出勤してこなくなった。この結果、残った医師・看護師に過大な負担がかかった。

病院でこうだから、他は推して知るべしだ。物流が途絶したため、ほとんどの企業、商店は営業を続けられなくなった。日銭が入ってこなくなったため、そのまま閉鎖したところも少なくない。この結果、取り残された高齢者が完全に孤立した。地元の医師は「取り残された住民の中には亡くなった人もいます。検死で餓死が疑われる方もいました」という。

当初、パニックとなった南相馬市も、震災から1ヶ月ほど経過し、実態が明らかになるにつれ、落ち着きを取り戻した。南相馬市の放射線量が低いことが判明したのだ。南相馬市立総合病院の周辺の空間線量は0.4~0.5マイクロシーベルト/時であった。中通りの福島市より低かった。

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