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「ランボー、鷗外、そして日本の未来」続:身捨つるほどの祖国はありや10

Japan In-depth / 2021年10月12日 19時0分

語っているのは当時の東大仏文教室主任、辰野隆である。渡辺というのは後の仏文科の教授となった渡辺一夫を指す。





小林の年譜をくれば、詩人の中原中也と長谷川泰子を介しての三角関係にあったころの出来事かと思われる。





それにしても、と、今の私は思う。「教室にちっとも出て来ない。家で本ばかり読んでいる」とは。まるで大学時代の私自身のようではないか。





私は他人の本を借りて読むことはなかったが、6畳のアパートで本ばかり読んでいた。雨の日は周囲が静かで、嬉しかった。





卒業は「それで通してください。」で実際に済んだ。もちろん所要の試験を受けてのことではある。





私は、司法試験に合格しさえすればよいと考えていた。





そういう私にとって、どうしてアルチュール・ランボーが青春の偶像だったのだろうか。





福沢諭吉のいう有用の人になること、そのために、その象徴たる東大に入ること、次いで司法試験に合格することに専念していたはずの自分が、なぜランボーに?





おそらく、ランボーが早熟の天才でありながら、僅か20歳で詩を棄てたことに、言いようのないほどの格好良さを感じていたのだ。有用の人の卵には、決してあり得ない人生の姿、その妖しい魅力。





そういえば、『ランボー、砂漠を行く』(鈴村和成、岩波書店 2000年)という本や、『ランボーとアフリカの8枚の写真』(鈴村和成、河出書房新社2008年)という本が私の本棚にはある。





奥本氏の本を読んでから、ふと思いたってある若い方に、ランボーを知っていますかときいてみた。





「ランボー?ランボーって、あの独りで戦う、映画のヒーローの?」





と答えが返ってきた。





そういえば、奥本氏の本には、「絶滅危惧種の文学青年」ともあったことを私は思い出した。





森鷗外が、功成り名を遂げた後になって書いた『普請中』という小説がある。若いころドイツに留学した主人公がいまや日本の中年のエリート官僚になっていて、ダンサーとして旅回りの途中で日本に立ち寄ったドイツ時代の恋人に会う。その再会の場面を描いた短い小説である。





鷗外自身は、そのとき軍医総監にして陸軍省医務局長の地位にあった。





女性とのやりとりのなかで、恐ろしく行儀が良い、「本当のフィリステルになり済ましている。」と話す。フィリステルとは俗物と脚注が付いている。





なり済ましている、というのは、真実は違うということだろう。本当は22年も昔、東京で別れたときと同じようにその女性、目の前のあなたを今でも愛していると婉曲に告白している含意がある。





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