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国葬は閑散、国民葬は長蛇の列(下)国葬の現在・過去・未来 その4

Japan In-depth / 2022年9月22日 7時0分

ちなみに、福沢諭吉が創設した慶應義塾も同時に大学として認可されており、両校が日本で初めての私立大学ということになった。早慶のライバル関係は明治の世までさかのぼるわけだが、大隈と福沢は、個人的には親しかったという。ただ、研究者の中には、在野の啓蒙思想家・教育者に徹していた福沢は「政治権力者との二足のわらじ」と呼べる大隈のことを、内心よく思っていなかったのではないか、と見る向きもあるようだ。





同じく1902年には、早稲田大学雄弁会も旗揚げされた。こちらも、多くの出身者が政界やジャーナリズムで活躍していることで有名だ。





創立だれた経緯だが、1890年代より、栃木県の足尾銅山から流出した廃棄物が、渡良瀬川流域の住民に深刻な健康被害をもたらしていた。銅山自体は江戸時代より創業していたが、明治政府が後押しした大拡張によって、産業廃棄物を原因とする環境汚染の規模も大いに拡大したのだ。わが国初の公害事件と称される。





この「足尾鉱毒事件」に際して大隈は、東京専門学校(当時)の学生が、各地で公害の悲惨さを訴える演説を行うことを奨励した。こちらはわが国の学生運動のはしりとされるが、創立者が学生運動をあおったというのも、なかなかすごい話ではないだろうか笑。





ともあれこの運動を機に、自身の主張を広く大衆に伝えるには「雄弁術」が必要だというのが大隈の考えで、彼自身、演説に際しての





「~であるからしてぇ、~なのであーる」





という独特の語り口が「雄弁口調」と呼ばれ、人気があったという。後にはこれが、政治家の演説のステレオタイプのように言われたが、敗戦後、普通選挙が定着してからは、一般に丁寧語に代わった。





しかしながら、このような大隈の姿勢をよく思わない者もいた。





1889(明治22年)には、日本の右翼の草分けと称される玄洋社のメンバーが、大隈の乗る馬車に爆弾を投げ込むという事件が起きた。爆弾は大隈の足下で爆発し、一命は取り留めたものの右足を切断する重傷を負う。





当時大隈は外務大臣で、江戸幕府が欧米列強との間で締結した、世に言う不平等条約の改正に腐心していた。その交渉の過程で、欧米人が日本国内で起こした犯罪については日本の官憲が訴追できるようにする代わり(不平等条約の下では日本側に裁判権がなかった)、外国人の判事を登用できるようにする、ということになっていたが、これに反対してのものとされる。ただ、犯人もその場で自決したため、詳細な動機などは分からずじまいであった。





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