1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

地域住民の命を守った鹿島厚生病院渡邉善二郎院長

Japan In-depth / 2023年7月30日 18時0分

鹿島区の中央部には真野川が流れる。市街地の大部分は沖積平野だ。水が確保しやすかったのだろう。この地域は、早い時期から稲作が行われた。江戸時代までは相馬藩が領有し、相馬藩七郷の一つ「北郷」と呼ばれ、米作の中心地であった。現在も米作を中心とした農業が主産業である。





鹿島区は、南相馬市の中では福島第一原発との距離が最も遠い。中心部で約33キロ離れている。当然だが、南相馬市の中では放射能汚染の程度は最も低い。





しかしながら、そんなことが分かったのは、原発事故からかなり経ってからだ。事故当初の混乱ぶりは、南相馬市内の他の地域と大差なかった。鹿島厚生病院のスタッフの中には「水素爆発の音が聞こえた」という人もいる。私の知る限り、原発から23キロに位置する南相馬市立総合病院のスタッフは誰も水素爆発の音は聞いていないので、この話の真偽は不明だ。ただ、当時、病院スタッフが極度の恐怖・緊張に苛まれていたのは確実だ。





原発事故の話を聞いて、多くの医療スタッフは避難を始めた。事故後、「無断」で欠勤した人までいた。多くは原発20キロ圏内の小高区在住や津波で自宅を失った人だ。当時の状況を考えれば無理もない。





3月15日、鹿島厚生病院は職員の避難を自主的な判断に任せることに決定したところ、翌16日には職員の数が半減した。経営する厚生連は、病院再開まで職員を「特別有給休暇」扱いにして事後処理したという。





理由は何であれ、医療スタッフが確保出来なければ、病院業務は継続できない。特に、重症患者を治療する入院業務は立ちゆかない。渡邊院長は「病院は診療を続けることができなくなり、自衛隊に患者を会津まで運んで貰いました。その際に、この病院は「みなし30キロ圏内」と認定されました」と言う。





ただ、原発事故から時間が経つと、鹿島区の線量は低いことが明らかとなった。また、原発から30キロ以上離れていたため、避難や屋内退避などの規制地域にも指定されなかった。





やがて、鹿島区の住民は自宅に戻ってきた。また、原発20キロ圏内の小高区に住む人々も、鹿島区の避難所に移ってきた。この結果、鹿島区には膨大な数の高齢者や病人が集まった。





このような動きは医療スタッフも同じだ。多くの医療スタッフが病院に戻ってきた。政府の指示ではなく、医療スタッフの避難により病院機能が継続できなくなったのは、私の知る限り、鹿島厚生病院だけだ。





医療従事者としては、罪の意識を拭えなかっただろう。残った看護師と逃げてしまった看護師の間で軋轢が生じても当然の状況だった。ただ、渡辺院長は、彼らを上手くまとめた。渡邊院長は「避難を決めた職員は、申し訳ないと涙し、残った職員は、私があなたの立場なら、避難すると理解を示していました。避難した職員は、避難先で何故職場を放棄してしまったのかと悩み、復帰後は、この先何があっても職場を離れないと多くの者が語っていました。これが士気の高さだと考えました。そして、看護師はほぼ全員が戻ってきてくれました。」と言う。渡邊院長のリーダーシップの元、震災前から素晴らしいチームワークができあがっていたのだろう。 





この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください