平成22年の年賀状「明治の日本、戦後高度成長の日本」・「場所と私、人生の時の流れ、思いがけない喜び」・「紅茶と結石と年賀状」
Japan In-depth / 2023年8月16日 23時0分
それが、さらに13年経って73歳になってから、こうした昔の年賀状を巡っての文章を綴るなどとは予想していなかった。もう何冊かの小説やエッセイ集を出していた。しかし、回想には無縁だった。
56歳の鷗外は書いている。
「老は漸く身に迫ってくる。
前途に希望の光が薄らぐと共に、自ずから背後の影を顧みるのは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る。」(『なかじきり』)
56歳の鷗外は73歳の私よりも老いを意識していたに違いない。しかし、その短い文章の最後に鷗外が掲げたのは「顧炎武は嘗て牌を懸けて應酬文字を拒絶した。此『なかじきり』も亦顧家懸牌の類である。」と結んでいる。
鷗外が文章の応酬を拒んだのには理由があった。では、鷗外は残りの4年間になにをしたか。
『帝諡(し)考』と『元号考』の執筆である。後者は生前には完成していない。もちろん読者はいない、ほとんどいない。そんなことは、眦(まなじり)を決した鷗外にとって視野の外だったのである。元号について鷗外が、大正というのは止という字が入っていて良くないと書いていると読んだことがある。また、明治というのは昔の大理の国で使われた年号であるとも述べているとのことである。どちらも猪瀬直樹さんの本『公』という本に出ていることである。
そんなことに鷗外は残りの全てを費やしたのである。後の世のために自分ができること、自分しかできないことに残り少ない命を燃やし尽くさずにおれなかったのだろう。さればこその應酬拒絶である。
もっとも帝室博物館長などの公職は離れることがなかった。そのせいで寿命を縮めたということもあったのだろう。奈良での正倉院御物の開封に立ち会ったり、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の出張をしたりもしている。死の2か月前のことである。イギリス皇太子とは、のちに王冠を賭けた恋で名を馳せたエドワード8世である。
私の60歳での感慨の無さの理由は、今にして思えば、若かった自分がいて、次々と大きな仕事が舞い込んできて、それを何人もの弁護士チームで巧妙に処理し、少なくない報酬を戴く。その目くるめくような躍動の日々の連続だったからだろう。
実は、それは今も変わっていない。確かに老人になってはいるはずなのだが、また、外見だけからでもその事実は、もはやまごう方もない。しかし、心は変わらないのだ。
私の祖母は75歳年上だった。若いころには色白で豊満な肉体の持ち主だったとおぼしき身体で、子どもの私を風呂にいれてくれながら、自分の二の腕の皮膚の垂れ下がったことを嘆き、「昔はこんなじゃなかった」といつも嘆いていた。さらに、十代の夏、周囲に誰もいないのを見定めて全裸の身体に泥を塗りつけ、バチャーンと川に飛び込んで遊んだものだったと話してくれたこともあった。
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