平成22年の年賀状「明治の日本、戦後高度成長の日本」・「場所と私、人生の時の流れ、思いがけない喜び」・「紅茶と結石と年賀状」
Japan In-depth / 2023年8月16日 23時0分
日銀の理事にまでなった吉野俊彦氏がライフワークとして鷗外研究に余念がなかった。私もずいぶんたくさんの吉野さんの鷗外ものを読ませていただいた。その二足の草鞋ぶりがサラリーマンの憧れの星だということを吉野さんは書いていた。最後には、吉野さん自身がサラリーマンの憧れの的になった観があった。彼もまた二足の草鞋の人であったからである。
それにしても、なぜエリスなのだろう。
恋愛は、職業を問わず誰もがするからだろう。庶民もエリ―トも、若いころは異性に惹かれる。人の常の情である。なかには同性に惹かれる人もある。若くなくなっても、異性に惹かれる気持ちが消えない人もある。私の文学の師である石原慎太郎さんは、なんどもなんども、「牛島さん、この世には男と女しかいないんだよ。人の世ではそれが一番重要なんだよ」と私を諭してくれた。「みんな恋愛小説を読みたいんだ」とも言われた。今にして、なるほどそうなのだろうと思う。
あの、石原さんが72歳で書いた『火の島』という恋愛小説の男性主人公、浅沼英造は、3,40代くらいだろうか。2000年の三宅島噴火のときに中学生で、ヒロインの礼子は小学生だから、20年後は未だ30代ということになる。心中してしまうのは可哀そうな気もするが、人と生まれて、それ以上の最高の死はないようにも思う。英造にナイフを胸に突き立てられ、何十メートルの崖を強く抱きしめられたまま落下する。礼子はなにを想い、感じたろうか。英造は?
分かる。この愛している女の全てに自分が責任を負い、それを落下しながら礼子を抱きしめた両腕にいっそう力を籠めることによって全うしつつあるという充実感。それ以上の人生があるとは思えない。
60歳になったからといって、この私には何の感慨も無かった。事務所の後輩弁護士たちが個人的にお金を出し合って素敵な黒革の手袋をくれた。還暦のお祝いということだったのだろう。単純に嬉しかった。
しかし、だからといって私は自分が年取ったという思いは少しも抱かなかった。60歳は50歳と変わらず、50歳は40歳と同じで、40歳といえば未だ独立して数年でしかなかった年齢に過ぎなかったのだ。もう人生もそれなりに時間が経ったな、などという思いなど遥かに遠い、無縁のものでしかなかった。確かに53歳のときに胆石の手術をした。だが、それはつかの間の休息の時ですらなかった。必要な一時的修理。それだけのことに過ぎなかった。身体が元気だったのだ。衰え?どこにも、無かった。
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