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平成22年の年賀状「明治の日本、戦後高度成長の日本」・「場所と私、人生の時の流れ、思いがけない喜び」・「紅茶と結石と年賀状」

Japan In-depth / 2023年8月16日 23時0分

池袋の本屋で買ったのは、そのころ私が豊島区要町に住んでいたからである。「要町マイコーポ」という名のマンションで6階建てなのにエレベータが無かった。しかし、それまで6畳の木賃アパートで便所は共用というところに住んでいた身には、夢に見た宮殿だった。その前は4畳半の、電車の線路間近の木造アパートだったのだ。電車が通るたびに揺れ、ストで電車が動かない日があるとなんとも嬉しかった。





その4畳半で私はやっと東大に合格したのだった。





江藤淳が子どもから青年になる時代に住んでいた十条について、勝木庸介氏の『出発の周辺』について触れながら書いている。「『出発の周辺』をはじめて読んだとき、私はある名伏しがたいなつかしさと胸のときめきを感じて、われながらおどろいたことがある。」(『場所と私』188頁 『夜の紅茶』所収)





江藤淳は十条を描いたと言う勝木庸介氏に問う。「十条のどこですか。僕は十条仲原三ノ一の帝銀社宅、のちの三井銀行社宅に七年間住んでいたんですけれども」





江藤淳にとって「十条の『帝銀社宅』での七年間」は「『穢土』と感じられる」と書かないではいられない時期だった。(190頁)





加藤周一は青年時代の目黒区宮前の家の道について、どぶと蚊柱とぬかるみと夜になんどか水溜まりに踏み込まずには通ることができないと嘆き、「私はわが家の窮状を思う度に、この宮前町のどぶ川のほとりから脱出することができるとすれば、それは私自身の独力でするほかはなかろうと考えていた。」と書いている。(『羊の歌』 著作集14巻225頁)





昭和40年代に地方の高校から東京の大学に来た人間は、人生に余分のハンディを背負う。両親の家にずっと住んでいられる大学生と地方から出てきて新たにアパート暮らしをしなければならない大学生との差である。





要町のマンションに移って、家賃は月2万9千円と一挙に3.4倍になった。それが叶ったのは、父親が自分の会社を持つようになったからである。その過程で獅子奮迅の働きをした息子のわがままを父親は寛大に見守ってくれたということであった。





6畳の和室に2畳の板張りのキッチンと小さな玄関、そして1畳足らずのバストイレの一体型で、はなはだ見晴らしがよく、夏の夕方になると遠く池袋の西口にある東武デパートの屋上ビヤガーデンからの音楽がとぎれとぎれに流れてきた。隣のユニットの水洗便所の水を流した後に停まるときの瞬間的な機械音をのぞけば、そこは静寂の空間だった。私が夢に見た宮殿と思い出す所以である。





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