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平成22年の年賀状「明治の日本、戦後高度成長の日本」・「場所と私、人生の時の流れ、思いがけない喜び」・「紅茶と結石と年賀状」

Japan In-depth / 2023年8月16日 23時0分

私でも、このまま死んでしまうのではなんのために生きてきたのか分からない、と嘆きたい気持ちになることもある。しかし、たぶん、このまま死んでしまうのだろう。平穏に死ねればそれが一番よいと諦念に包まれることもある。





最近『村松剛』(神谷光信 法政大学出版局刊)という本を拾い読みした。村松剛が「死はこわくないが、歴史に残る仕事をしなかったのが残念だ」と病床で言った(400頁)とあった。へえ、そういう人もいるのか、そいつは残念なことだったろうな、気の毒に、と単純に思った。それにしても「歴史に残る仕事」というのはどんな仕事なのだろうか。





73歳というのは中途半端な歳だ。未だ10年は元気でいるかもしれない。いや、もう1、2年かもしれない。定期に健康診断を受けているのは、なんのためなのだろう。





基本はもっと生きるためなのだろう。いや、苦しまないで死ぬことができるようにということかもしれない。しかし、いくら健康診断で病気が早期に発見され、治療が可能だったからといっても、いずれ来るものは来る。それまでの悪足掻きか。





ごく最近の読売新聞には、男性の健康寿命が平均72.68歳と出ていた。





どうして本を読むのだろう。受験は終わったのだ、もう勉強する必要はないのだ。





それなのに、本を読む。必死になって読む。仕事に関係なくても読む。大量に、いろいろな分野の本を読む。





愉しみ?





そうかもしれない。





誰にとっても、ピンピンコロリが理想なのだろう。つまり突然の死ということになる。





そうだろうか?自分はどうやら死んでいくらしいな、と思いながら死ぬ方がよいのではないか。石原慎太郎さんの死はそうだった。そういえば、石原さんは執拗に身体をさいなむ痛みについては書いていない。





私は、石原さんが賀屋興宣の語りをそのまま採った「死ぬと、独りきりでとぼとぼと歩いてゆく。そのうちみんなに忘れられてしまう。それどころか、自分で自分を忘れてしまう。」ということになりそうな気がしない。





人は死ねば、一部の近親者を除いて、ゴミになる。人生最後の光景は、見ても、どこにも納めることなどできはしない。





それでも、書いたものは残る。残ると思いながら死ぬことができる。それが文章を書く人間の特権だろう。もっとも、多くは日記と同じで、誰も思い出しも読み返しもしないのだが。





私が江藤淳の文章を読むように、漱石の小説を聴くように、誰かが、意識してくれるかもしれないという期待。それは虚しき思いか。つまるところ、石原さんの『太陽の季節』が今後も何人かに読まれることと石原さんの人生は何の関係もないのではないか。石原さんは死んだ。それで終わりだ。





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