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四コマなのに…『ののちゃん』いしいひさいち氏の自費出版本に「言い知れぬ感動」

マグミクス / 2023年1月26日 20時10分

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■『ののちゃん』作中の「連載内連載」として描かれる

「朝日新聞」朝刊の四コママンガなどで知られる、いしいひさいちさんの単行本『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を、ご存知でしょうか。

 2022年8月の発売以来、SNSなどでとり・みき氏ら漫画家や識者から称賛の声が多く寄せられ、宇多丸(RHYMESTER)さんの「アフター6ジャンクション」や伊集院光さんの「深夜の馬鹿力」といったラジオ番組でも話題に取り上げられました。カルチャー誌「フリースタイル」の恒例企画「THE BEST MANGA 2023 このマンガを読め!」では堂々の第1位に選出されています。

 それでも、本作をAmazonなどの大手電子書店ではもちろん、一般的な書店でも見かけることはほぼないはずです。なぜなら、この本はいしいひさいちさんの公式ウェブサイト「(笑)いしい商店」と、提携している電子書店と数軒の書店、即売会などのイベントでしか販売されていない、自費出版作品なのです。

 いうまでもなく、いしいひさいちさんは1972年に『バイトくん』でデビューし、『となりの山田くん』などの代表作を多数持つベテラン漫画家です。ナンセンスギャグを得意とし、諧謔(かいぎゃく)で軽妙洒脱、それでいて批判的視点を備えた作風で、四コママンガの世界に革新的な変化をもたらしました。

 近年は朝日新聞の連載『ののちゃん』を中心に活動しており、本作『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ(以下『ROCA』)』の原型は『ののちゃん』の連載内連載として展開していました。

 しかし2012年3月、いしいひさいちさんのWebサイトで「朝日新聞のコアな読者にはたいへん評判がわるかった」として、朝日新聞での連載内連載を終了し、吉川ロカシリーズは今後Webサイトで続けていく旨が告知されます。

 そして2022年、自身の同人誌とウェブサイトでの発表分、朝日新聞掲載分に若干の描きおろしを加えて発表されたのが、本作『ROCA』です。

 画業50年を超えるいしいひさいちさんが、仕事でもなく自らの意志で10年の月日をかけて取り組んだのは、どんな作品なのでしょうか。

 単行本としてまとめられた『ROCA』の序文には、こうあります。

「これは、ポルトガルの国民歌謡『ファド』の歌手をめざす どうでもよい女の子が どうでもよからざる能力を見い出されて花開く、というだけの都合のよいお話です」

 本作の主人公・吉川ロカは、たまのの市に住む高校生。人並み外れた声量と独特な歌い回しの持ち主で、ファドの歌手になることを夢見ています。

 気弱で音程以外はみんなオンチと称されるロカの面倒を見るのが、一年生を3回経験した年上の同級生・柴島美乃。地元で恐れられている柴島商会の娘で、その気の強さと顔の広さを用いて、マネージャー兼用心棒としてロカの活動を支えていきます。

■読み終えた時に押し寄せる、複雑な「感情」

いしいひさいち氏が自主制作マンガの展示即売会「コミティア」向けに制作した「ドーナツ・ボックス」(オフィス安藤)。同誌において『ROCA』の連載も行われた

 地元での路上ライブやライブ会場の仕切り、FM局やレコード会社との折衝など、音楽もの王道のサクセスストーリー的な展開はあれど、そこはやはりいしいひさいちさん。ベースはあくまで四コマギャグで、一本一本小気味よいギャグできちんとオチをつけながら、三歩下がって四歩進むような勢いのロカの成長を、着実に積み上げていきます。

 そう、本作の特筆すべき点は、いしいひさいちさんの作品には珍しく成長を主軸にしたストーリーマンガ、それも青春物語と言っていい作品であることです。

 青春とは、何者でなかった自分が何者かになるーー理想の自分を夢見て、それを実現するために現実と向き合う期間といえるでしょう。その「何者か」になる過程で、多くの挫折とごく稀な成功体験を重ねて、人は少しずつ成長していきます。

 同時に、それまで意識していなかった自分と周囲=他者との差異に揺れ動きながら、自己を確立していく時期でもあります。
 そして、いつしか優しく包んでいてくれていた身内から離れ、ひとりの大人として世界と対峙するようになるのです。

『ROCA』は、こうした変化や心の揺れを、研ぎ澄まされたギャグを交えた109本のエピソードで丁寧に描き連ねていきます。

 最初は人前で歌うことさえためらっていたロカが、後に美乃に「お客がゼロでも、30人でも歌がぜんぜん変わらん」と褒められて、自分は「お客さんのための歌うとらんのじゃろか」と悩む場面。待望のメジャーデビューを果たしたロカが、周囲の才能に打ちひしがれ、美乃に電話すると、地元にいた時と変わらずただ「バカ」と言われたけれど、ただその一言で落ち着きを取り戻す場面。

 可笑しさのあまり読み進めた読者は、いつしかロカも自分も始まりの場所から遠く離れた世界へと来ていたことを知るのです。青春の最中はただ夢中で、自分がどこにいるのか何をしているのか気づかないように。

『ROCA』以外のいしいひさいちさんの作品に、これまで青春を描いたものがなかったわけではありません。

 たとえば野球部の岡田くんが女子部員の島田さんにほのかな恋心を抱く『ののちゃん』内での連載内連載や、かつて「コミックトム」誌上に連載された菊地、久保、鈴木という、ファンにはお馴染みのキャラクターが、部費調達や強豪校との練習試合に挑む『山田三中野球部日記 ゲームセット』などが挙げられます。

 それでも『ROCA』ほど、真正面から青春や成長を描いた作品はなかったように思います。どんなナンセンスなギャグも連綿と続く(だからこそ尊いとも言えるのですが)日常に回帰する『ののちゃん』の世界から『ROCA』が飛び出し、独立した作品になったのも、ごく自然な成り行きでしょう。

 そして『ROCA』が、青春物語にならねばならなかったおそらく最大の理由が、ファドに不可欠とされる 「サウダージ」という感情です。

 ポルトガル語で、大まかには「郷愁」や「思慕」と訳されることもありますが、正確には「無邪気で幸福だった日々を懐かしむ気持ち」「もう戻れない過去を思う切なさ」といった、他の言語ではひとつの単語で表すことのできない複雑に入り混じった感情を示す言葉だそうです。

 こうした説明を読んでも、ポルトガルにもファドにも疎い自分には、どんな感情なのか、正直実感はできませんでした。

 しかし『ROCA』を読み終えた今なら、それがわかる気がします。

 本を閉じ、さっきまで浸っていた『ROCA』の世界を思い起こした時、胸にこみ上げる、日本語ではただ「感動」としか言えない思い。これが、おそらく「サウダージ」と呼ばれる感情なのでしょう。

 ただ面白いだけでも、切ないだけでも、儚いだけでもない、複雑にからみ合った、言葉にならない新たな感動……『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』は、読者をそんな新たな地平に連れて行ってくれる一冊です。そして、それはおそらく50年にわたりナンセンスギャグを描き続けてきた、いしいひさいち先生だからこそ、たどりついたであろう境地なのです。

(倉田雅弘)

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