熊倉重春が振り返るディーゼルの進歩──コモンレールという魔法
MotorFan / 2018年8月26日 23時20分
ある意味のんびりしたディーゼルエンジンの時代から、環境対応とドライバビリティの両立を図った新世代ディーゼルにシフトした90年代中盤。そのキーシステムが現在もデファクトスタンダードのコモンレールシステムだ。あまりにも衝撃的な移行を体験し、目の当たりにした体験をここに綴ってもらおう。 TEXT:熊倉重春(KUMAKURA Shigeharu)
驚きの超高圧
1995年の秋、ベルリンのポツダム広場にあったダイムラー・ベンツ社の中央研究所で、近未来のエネルギーと環境をテーマとしたワークショップが開催された。当時は社名がダイムラー・ベンツで、そこで生産される自動車がメルセデス・ベンツだった(現在の社名はダイムラー)。組織の成り立ちも二重構造で、実際のクルマ作りに関する研究はシュトゥットガルトにあるメルセデスの研究所が担当するのに対し、ベルリンに設置されたダイムラー・ベンツの研究所は、より大所高所から、総合的に考えるシンクタンクとしての役割を担っていた。だから時によっては、自社製品にとって不利益になるような発表を行うことも、なくはなかった。
その一室で「やがて訪れる新時代のディーゼル」と題した講演を聞いた時、私は、耳が(いや、頭が)おかしくなったと思わないわけにはいかなかった。燃焼室に噴射する燃料を、なんと 1200バールまで加圧するというのだ。「あのう、聞き間違いでしょうか。たしか 1200バールとおっしゃったような気がするんですが?」とおそるおそる質問すると、講師は平然として「そうです、 1200バールです」。
1200バール!つまり、およそ1200気圧にも届こうかという、とんでもない高圧ではないか。クルマ雑誌の記者になってから、その時すでに25年も経過していたが、けっして少なくない経験に照らしても、およそクルマに関して考え得る圧力ではなかった。
続けて行われた説明によると、タンクから汲み上げた燃料(軽油)を高圧の状態で一本のパイプに溜め、そこからシリンダーごとに配置された噴射ノズルへと分配するのがミソだと言う。各シリンダーへの燃料を共通のパイプで賄うから、それをレールに見立てて「コモン(共通の)レール」と名付けたわけだ。
はなはだ不勉強で、恥ずかしながら、その時まで私は知らなかったが、実はコモンレールの考え方は、ダイムラー+メルセデス+ロバート・ボッシュが出発点ではなく、 1990年代の初めに日本のデンソーから生まれていた。ただ華々しく宣伝されたわけでもなく、ディーゼル乗用車そのものが日陰の花みたいな存在だったので、うかうか見過ごしていたにすぎない。今さらのように不明を恥じるしかない。
ガソリンと原理は同じ
コモンレール方式がデンソー生まれだというのも不思議なことではない。同社は1970年代からトヨタ車用の電子制御ガソリン噴射装置(トヨタ流に言えば EFI)を手がけており、その原理はディーゼルでも同じだった。だからコモンレール方式が認知される前、たとえば電子制御式の噴射ノズルなど、新時代ディーゼルの基本となる技術は確立されていた。これは日立製作所やヂーゼル機器などでもほとんど同じだったと思われる。
違うのはコモンレールに蓄えられる燃料の圧力1200バールだけだが、ここが難問だった。ガソリン用の10〜20倍もの高圧なのだ。揮発性の高いガソリンは微細な霧となって拡散しやすいのに加え、プラグによる火花着火で効率よく燃やせるが、同じ条件で軽油を用いると、不完全燃焼で大量の黒煙を出してしまう。
そこで高い圧力をかけ、それを受ける新世代ノズルから理想的なフォームで噴霧するのだが、圧力が圧力なので、頑丈な部品を高い精度で組み合わせるのが必要だ。コモンレール・ディーゼルのエンジンルームを覗くと、吸気系に鎮座するぶっとい金属製のパイプが目に付くが、あれがコモンレールの正体。ゴツくて外径2〜3cmあって、単体で持ってもずっしり重いが、それもそのはず、中の空洞部分は内径数ミリしかない極端な肉厚パイプなのだ。こういう部分だけ見ても、ディーゼルエンジンが重くなるわけがわかるが、パイプ(コモンレール)だけ頑丈に作っても仕事は半分でしかない。燃料タンクから高圧ポンプを経てここまでと、ここから各シリンダーに設けられた噴射ノズルまでの枝分かれ管、さらには使われなかった燃料をタンクに戻すための還流路まで、すべて圧力を念頭に置いて作られなければならないのだ。細いパイプ類、その口金とシール材など、恐ろしい漏れを生ずる可能性のある部分は枚挙に暇がない。
あっ、世界が変わった
それほどの手間をかけてまでコモンレール・ディーゼルを開発する意味があったかと言うと、ありすぎるほど、あった。最初に研究所で概念を説明されただけの段階では「ふむふむ、なるほど」とわかったような顔だけしていたのだが、2年後にCクラスのCDIが実際に発売され、ベルリンを再訪した時には、飛び上がって天井を直撃するんじゃないかと思うほどビックラこいた。冗談じゃないぞ、こんなディーゼル、見たことも聞いたこともないぞ。
乗ったのは、最もベーシックなC200CDIの5速AT。4気筒ツインカム16バルブ2151ccにターボチャージャーを具え、圧縮比19で最高出力102ps/4200rpm、最大トルク24mkg/1500rpmという数字そのものは、この排気量のディーゼルならこんなもんだろうと思える水準だったが、いざ乗ってみると、走る前にエンジンをかけただけで、それまでの先入観がまったく通用しないことを思い知らされた。ガラガラ音がまったくないわけではないが、感覚的にはトゥルルル〜ッと滑らかに目覚める。そこからの震動もごく軽い。クルマの後方にまわってみても排気は無色だし、軽油じみた臭気もごく薄い。
一方、走り出す瞬間グイッと持ち上げる力強さなど、旧来からの長所はそのままだったから、理想の自動車と思えたりもした。その開発を主導したのがボッシュで、クルマ界の隅々まで根を張っていたから影響力もものすごく、それから数年〜10年もしないうちに、ロールス・ロイス、ベントレー、アストン・マーティン、フェラーリ、ランボルギーニ、ブガッティ、マクラーレンなどごく一部を例外とするヨーロッパの全メーカーが、ディーゼル車をカタログに載せるようになり、一時はヨーロッパの全販売数の 50%以上を占める趨勢になってしまった。コモンレールは、ディーゼルエンジンに全能の権限をもたらす魔法の杖だったのだ。
余談ながら
1995年の初訪問から、こうして燃え上がったコモンレールディーゼルだが、ここベルリンの中央研究所では、いかにもダイムラー・ベンツ社らしく堅苦しい一面も垣間見ることができた。 1995年には、彼等は「現在の計算では、あと 35年で石油資源は枯渇します」と主張していた。本当に 35年なのかは諸説あって、まだまだなくなりそうでもないのだが、 1997年にふたたび訪ねてみると、きっちり彼等なりに計算を整えて「あと 33年になりました」と言っていた。あの前後、ダイムラーがアマゾンの奥地で栽培した植物からアルコールを精製したり、インド北東部の不毛の大地を活用しようと試みていたのは事実。彼等が一貫してエネルギーの将来を憂慮していたとすれば、コモンレールディーゼルの開発など、ほんの小さな一歩にすぎないだろう。
非情な歴史の展開
そんなわけで、アッという間にクルマ界の主役の座にのし上がったディーゼルだが、良いことは長くは続かなかった。黒煙は出ていなくても、見えない有害物質 PM2.5の排出が多いことが指摘され、いろいろ対策は施されたものの、それにも増して規制の強化が進み、あれよあれよという間に崖っ縁に立たされてしまった。ディーゼルに代わって環境面で主役を演じそうなのが電力だが、まだまだこの先どう展開するか、予断は許されない。いつも私たちは、大きな流れの中で、自分が辿ってきた道や、現に立っている場所を基準にものを判断しがちだが、これからは、まったく経験もしたことのないような状況に、めまぐるしく直面させられることになるのだろう。
懺悔
こんな流れを読み切れなかった私自身、とんでもないポカをやらかしてしまった。 21世紀を迎えた頃のことだ。横浜・赤レンガ倉庫の広場に詰めかけた聴衆の前でメルセス・ディーゼルのエンジンを掛け、グリルの前で耳をそばだてて「静かですねえ」と感心して見せ、後ろに回って排気口をクンクンしては「ちっとも臭くありませんよ」などとやっていたのは、ほかならぬこの私だった。日本ボッシュから依頼されての出演で、その時点で内容に嘘はなかったのだが、実は頭の中は、すでに半分以上「電化」されていたのを、無理に抑えつけての出演だった。やがてパリやロンドンでディーゼル車が走行禁止になるなんて、想像だにしていなかった。不明を恥じるしかない。
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