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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第49回 【茂吉】文字と文字盤(5) 茂吉と助手

マイナビニュース / 2024年9月10日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○畳敷きの研究室で

『石井茂吉と写真植字機』によると、1928年 (昭和3) から翌年にかけて製作された「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体)」では4人のひとに原字を書いてもらったところ、不ぞろいが目立ったこともあり、茂吉が自分で文字をつくることにした、とある。[注1] 1961年 (昭和36) 10月に掲載された雑誌のインタビューでも、茂吉は〈こんなものでも人が違うと味が変わってきてしまうんです。どうしても揃わない、キレイにゆかないので、私が自身で書いてみることにしたのですが、これは写真植字機の種字として書いているんですから、前のような横着なもの (筆者注:仮作明朝体) よりずっといいのです。これは通常使用される文字を私流に書いたのですが (後略)〉[注2] と答えている。では、1930年 (昭和5) に着手した「明朝体」は茂吉ひとりで原字制作のすべての作業をおこなったのだろうか。否、どのように分担したのか詳細は不明だが、助手はいたようである。

1930年 (昭和5) に東京府立工芸学校 (現・東京都立工芸高校) を卒業し、数カ月『キネマ週報』につとめたのち、府立工芸の7年先輩にあたる原弘の紹介で写真植字機研究所に入所した、大久保武 [注3] というひとがいる。1932年 (昭和7) 春におこなわれた第4回発明博覧会のころにはすでにいなかったというので、おそらくは約2年弱の在籍だったのだろう。[注4] 大久保は、1984年 (昭和59) にふたつの雑誌記事に登場し、のちの石井中明朝となる「明朝体」をつくっていた1931年 (昭和6) ごろの話をしている。ふたつの雑誌とは、『アステ』第1巻第1号 (リョービ印刷機販売、1984.6) と、『E+D+P』 (東京エディトリアルセンター、1984.8) だ。[注5]

そのころの写真植字機研究所は、王子・堀ノ内 (現・堀船) の石井茂吉自宅にあった。荒川 (現・隅田川) に近い木造の2階建て家屋で、1階には茂吉一家が住んでいた。研究所の仕事場はその2階。2階には、畳敷きの一間きりだった。

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