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変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第2回 明治32年7月17日、日本電気株式会社の設立

マイナビニュース / 2024年10月29日 12時0分

そこで着手したのが工場の強化である。
誰が言ったか「三田のハイカラ工場」

NECでは、1900年に工場移転を決定。検討を重ねた結果、旧工場から東南方に約100メートル離れた三井一門が所有する東京・三田の広大な敷地を確保することにした。最初は5845平方メートルの土地を取得。その後、10年間に渡り、2万2069平方メートルの土地を取得していった。ここが、現在のNEC本社であるスーパータワーがある場所だ。米シカゴのWEの工場を模した赤レンガづくりのモダンな建物は、日本の土地柄を考慮し、耐震耐火建築によって設計され、関東大震災では、鉄筋コンクリート建ての近隣の工場が大きな被害を受けるなか、その建物だけは無傷で残った。

新工場の建設は、WE全体の更新計画とともに実行され、他の工場で使用されていた中古品を導入。それでも日本の生産拠点としては、他社の羨望の的となるような設備であり、自動旋盤は、この当時は、時計生産を行う精工舎と、NECにしかないものだったという。

さらに、当時の日本の工場では珍しかった自家発電設備も導入している。新たな設備の導入とともに、日本で主流となっていた工程ごとに親方が管理する「親方制度」(請負制度)からも脱却し、WEが採用していた近代的管理手法を工場に持ち込んだことも見逃せない。

こうした生産拠点の移転、強化によって、機械や道具が整い、NECの自社生産品の品質が向上し、生産性の改善によるコスト競争力が備わった。その成果は明らかだった。逓信省の入札では、NECの連勝続きという結果になっていったという。

国内電話機市場は、逓信省が推進する第1次および第2次電話拡張計画によって、大きな盛り上がりをみせるなか、NECの業績は大きく伸長し、創業期の経営基盤を確立することができた。

ちなみに、NECには、1908年時点で、すでにタイムカードが導入されていた。日本で最初にタイムレコーダーがアマノによって開発されたのが1931年であり、その先進性がわかる。

また、NECでは、米国流の経理手法を持ち込み、予算統制や経理監査の徹底、原価計算の採用など、どんぶり勘定とも言われた日本企業のやり方にもメスを入れた。帳簿や伝票のすべてがWEと同じ様式のものを採用し、伝票の項目はすべて英文で書かれ、その下に日本文の説明がついていたという。

この当時、NECは、「三田のハイカラ工場」と呼ばれていたという。また、「NECに勤務していると言えば、すぐ嫁の話がまとまった」という逸話が、同社の社史に掲載されている。「世間から信用されていたこと、ハイカラな社風が、世の娘心をくすぐったことに加えて、なによりも収入がよかった。当時、男子従業員の平均収入は、民間工場の全国平均より5割以上高く、政府直轄工場並みであったと言われている」と記されている。

(つづく)
(大河原克行)



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