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変革の軌跡~NECが歩んだ125年 第3回 勇気をもたらした国産無線技術と、戦禍を乗り越えた住友通信工業

マイナビニュース / 2024年11月5日 12時0分

しかし、日本の政情が緊迫し、軍部の力がますます強まるなか、ISEは、さらに出資比率の引き下げを決定せざるを得なかった。

海外資本比率が高い企業からの調達を避ける動きがさらに顕在化すれば、NECの事業は完全に頭打ちになる。また、NECは、満州事変の勃発にあわせて三田工場が陸軍の監督工場に指定され、その後芝浦工場は陸軍の管理工場に、玉川向工場が陸軍と海軍共同の管理工場に指定されており、経営や事業場運営に関する重要事項については、軍部の管理監督下にあるという状況だった。

そこで、三者は検討を進めた結果、1938年の契約でISEの出資比率を36.9%に減らし、住友系の出資比率を31.1%に高めることになったのである。

ところが、政情はさらに深刻化していった。

1941年、NECは、出資比率を維持したまま、資本金3000万円を、5000万円に増資することを決定したが、日米間の関係が悪化しはじめたこともあり、外国為替管理法による制限が強化。ISEは、新株の割当を引き受けることができないという事態に陥ってしまったのだ。そこで、住友本社は、この分を一時的に肩代わりしたが、その結果、ISEの出資比率は19.7%に減少し、住友本社は46.1%の株式を持つことになったのである。外資系企業でスタートしたNECの経営権が、初めて日本側に移ったのがこのときである。

しかも、この年の12月、太平洋戦争が勃発。政府の敵産管理法の公布によって、ISEの所有持株を敵産として処分し、ISEとの資本関係は一時中断。同時に、戦時中のNECは、住友本社の統括下で経営が進められることになったのだ。
戦時の住友入り、戦後の財閥解体、再出発の「日本電気」へ

1943年2月、戦局が重大化するなか、住友本社は、NECを、直系会社を意味する連繫会社に指定。あわせて社名を住友通信工業に変更した。さらに、戦争下では、NECのすべての工場が軍需工場に指定され、無線機器やレーダー、水中聴音機、超音波機器、真空管、搬送機器などを製造。軍による統制を全面的に受けることになっていった。住友通信工業時代のNECは、軍需会社としての役割を担っていたといえる。

1945年8月の終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって発表された財閥解体および財閥資産凍結により、住友本社の解体が決定。住友の連繫会社として制限会社に指定された住友通信工業では、平和産業への転換をベースに企業再建に向けた取り組みが始まっていった。

その第一歩が、1945年11月30日の定時株主総会によって決定された「日本電気」への社名復帰であった。住友通信工業は2年9カ月という短い期間、使われただけだった。

なお、1950年には、ISEとの技術提携および販売協定が改めて締結され、これをもとに、NECは、世界水準の電子技術や通信技術を、戦後のわずかな期間で習得し、戦中の遅れを取り戻すことに成功した。そして、1949年には、戦前と同じく32.8%の株式をISEが取得する資本関係が確立された。
(大河原克行)



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