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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第54回 【茂吉と信夫】奨励金交付の光栄の影で

マイナビニュース / 2024年11月19日 12時0分

○かすかな不穏の兆し

恩賜発明奨励金の交付は、長く経済困難に苦しむ茂吉にとって、経済的にも助けになった。いや、写真植字機研究所にとって千円という金額は、夏のにわか雨がつくった水たまりのようなもので、またたくまに乾いてしまう程度に過ぎなかったかもしれないが、恩賜発明奨励金の交付にふさわしいと選ばれ、評価されたことは茂吉を力づけたし、邦文写真植字機が世間に知られ、理解を得る機会となることはありがたかった。

実際、それまで茂吉と信夫が邦文写真植字機の開発に取り組む姿を見て「いいかげん、馬鹿なことはやめればいいのに」と陰口をたたいていた人たちが、恩賜発明奨励金の交付によって「それほどの大発明だったのか」と驚き、激励の手紙を書いてよこす人も少なくなかった。 [注6]

しかし同時に、この交付は、かすかな不穏の兆しでもあった。

恩賜発明奨励金は、組織ではなく発明家個人に与えられている。ひとつの研究に対し、対象となるのは必ずしも1人のみでないことは、テレヴィジョンの発明に対し連名で授与された山本忠興、川原田政太郎の例を見てもわかる。

だが写真植字機の発明に対し選ばれたのは、石井茂吉のみだった。

奨励金の交付と前後して、恩賜発明奨励金自体、あるいは写真植字機を取り上げた記事が新聞や雑誌に掲載されたが、それらの記事は「写真植字機は石井茂吉が発明した」と告げ、森澤信夫の名前はそこになかった。ひとつ1925年 (大正14) にも茂吉と信夫が試作第2号機を完成させたときに5ページにわたって大きく取り上げた『実業之日本』誌では、今回も変わらず茂吉と信夫ふたりの発明として、ふたたび5ページの記事で写真植字機を取り上げたが、それはむしろめずらしいケースだった。 [注7]

なぜ、こんなことになったのだろうか?

恩賜発明奨励金は、帝国発明協会の調査委員によって審議され、理事会の決議をもって決定された。この調査委員には、工学博士の関口八重吉、密田良太郎にくわえ、同じく工学博士の加茂正雄の名があった。 [注8] 加茂は、東京帝国大学機械工学科時代の茂吉の恩師である (本連載 第3回「京北の麒麟児」参照) 。茂吉の優秀さをだれよりも知る師が、工学士の茂吉が14歳下で学歴のない信夫と写真植字機の開発に取り組んでいると知ったとき、それは茂吉が主導した研究であるという思いこみを抱きはしなかったか。

大正末から昭和はじめの時期、ふたりの写真植字機は基本的に、試作機の発表であるとか、奨励金を交付されたといったトピックがあったときにメディアに取り上げられている。しかし、そうした背景がなく、なぜか同時期にいくつかの新聞雑誌に記事が出たことがある。恩賜発明奨励金交付の約半年前、1931年 (昭和6) 3月のことだ。邦文写真植字機について、いずれもこう書いている。

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