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“オールドメディア”が信頼を取り戻すために――名張毒ぶどう酒事件に取り組み続けてきた阿武野Pが語る「背骨」の必要性

マイナビニュース / 2025年1月2日 7時0分

「岡美代子さんはもう94歳なので、もしこのまま亡くなってしまったら再審を請求できる人はいなくなってしまう。時間との戦いになってきている中で、速やかに再審を開始してほしいという意味を込めて、46年にわたる東海テレビ『名張毒ぶどう酒事件』シリーズの“最終章”としました。この後は、再審無罪という司法の新たな物語の幕開けにしてほしいと思っています」

その上で、「“家族がこういう目に遭ったら、あなたはどうしますか? 今、私たちはこういう危うい司法環境に置かれているんです”ということを描き込みたかった」「“死刑囚・奥西勝”という括弧でくくられた存在になっていたところを、家族など周りの人たちとの関わりの中で奥西さんのパーソナリティを描き出していきたい」という狙いもあった。

63年にわたり兄の無罪を信じ、再審請求を引き継いだ美代子さん。その原動力を、「やはり家族への思いだと思います。特に無罪を信じ続けたお母さんの思いを受け取って、兄が亡くなった後も自分の命ある限り世に問うんだという気持ちを、心の奥深くに持っているのだと思います」と捉えている。

その思いを象徴するのが、今回の映画で美代子さんが主治医と事件について会話するシーンだ。

「美代子さんの主治医が、こう語りかけます。最初に現場に駆けつけた医師が自分の父で、叔母も事件に巻き込まれて3日間失神していた、と。主治医は“昔のことはあまり思い出さんほうがええか”と言うんですが、美代子さんは事件のことを“ちょっとの間も忘れたことない”とはっきり言うんです。美代子さんの日々の暮らしに、事件がくさびのように打ち込まれていて抜けることがなかったんだと思いました。冤罪に巻き込まれた親族がどういう思いでいるのか、胸を締め付けられるシーンです」

●休日に自費で取材を始めたスタジオカメラマン
東海テレビで名張毒ぶどう酒事件の裁判に疑問を持ち、最初に取材を始めたのは、スタジオカメラマンだった門脇康郎氏。着手したのは、事件発生から17年が経った1978年のことだった。

阿武野氏いわく「当時、司法とメディアの関係は、神聖な判決に疑義を申し立てるような報道がはばかれるという雰囲気だったのではないか」という中で、報道部の所属でもない門脇氏は、“どんな部署にいようとテレビ局員は皆、ジャーナリストであるべき”という考えの持ち主で、休日に自費で取材を続けていたという。

その後、報道部が番組化を決めて組織的に関わることになり、門脇氏をディレクターに立て、87年6月29日に『証言~調査報道・名張毒ぶどう酒事件』というドキュメンタリーを放送。その後、再び組織は取材から遠のくが、門脇氏の活動は続いた。

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