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<震災から5年・被災者は今(1)> 義母と補償金を親族に奪われて

ニューズウィーク日本版 / 2016年3月2日 16時30分

 その日が自宅で暮らした最後となった。本田は当初いわき市の親戚宅に向かい、しばらく滞在したのちに、避難所だった二本松市の体育館に入った。

 夫も結局、行政の指導で浪江を離れ、別の避難所に入った。息子たちもそれぞれ別の避難所へ一時身を寄せた。家族は連絡を取り合いながらも、バラバラに数カ月を過ごし、そして2011年6月になって、やっと皆がそろって福島県内の仮設住宅に入居することになったのだった。

 本田は当時の心境をこう述懐する。「仮設でみんな一緒になったからよかったけど、これまでの生活を捨て、さすがにこれからどうして生きていけばいいのかと不安でした。いつまで仮設に住むのか、私たちはどこに向かっているのか、何も分からないんですから」

【参考記事】日本は世界一「夫が家事をしない」国

 本田は仮設住宅に入った当日のことを今でもはっきりと覚えている。家族そろって完成したばかりの仮設の一軒に荷物を運び、それから夫と2人で仮設住宅の敷地内をゆっくりと見て歩いた。そして部屋に戻ると、夫(当時57歳)はこう言った。「ここは俺の住むとこでない。他に行くところはないけど、ここには住みたくない。やっぱり浪江(自宅)に帰りたい」

 しかし自由に自宅に帰ることが許されなかった彼らにとって、当初、仮設住宅に入る以外の選択肢はなかった。そして予想通り、仮設住宅の生活は想像以上に過酷だった。長屋形式でプレハブ作りの仮設住宅は、玄関を入るとすぐに3畳ほどの狭いキッチン・ダイニングがある。そしてその奥には4畳半ほどの部屋が3つある。それ以外には、トイレとお風呂場がある簡素なつくりだ。

 本田がもっともストレスを感じたのは、仮設住宅の壁の薄さだ。「隣の家の会話も聞こえるほどで、こちらもかなり物音に気を使いながらの生活になった」。それまでの生活とは一変したのだから、神経をすり減らしたのも無理はない。

 加えて、「ホームシック」が本田を苦しめた。仮設住宅はアスファルトの上に置かれた灰色で無機的な建物で、どこを見てもアスファルトの地面が目に飛び込んでくる。昔の隣人たちとも連絡がつき、時々電話でやり取りをして情報交換するようになったが、そうなると自然に囲まれた自宅が余計に恋しくなった。

浪江町の住民は原発事故後に避難したまま自宅には戻れなくなった(2011年5月22日、撮影:郡山総一郎)

 それは夫も一緒だったようだ。仮設に入ってしばらくすると、夫は肝臓を壊し、原発事故発生当時まで控えていた酒を再び飲み始めるようになった。

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