いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く5 (スラムの真ん中で)
ニューズウィーク日本版 / 2016年6月22日 18時0分
患者たちは一様に寡黙だった。これは他の施設でも同じで、外国人の俺たちを警戒しているのか、決して街の中のようにはしゃべらないのだ。MSFで診察してもらっていること自体に、何か遠慮のような気遣いがあるのかもしれなかった。
また、灰色の大きなテントにも我々は入った。まず入り口に座った係の女性がポンプにつながったノズルを持って、我々一人ずつの靴の裏に白濁した消毒液をかけた。出入りには各一回ずつ、そうやって消毒が必要だった。
中には土の上にずらりと簡易ベッドが並べられていた。それがコレラ病棟だった。乾季の終わりにはまだ数人の患者しかいないとのことで、しかも病棟に彼らはいなかったが、雨季になって12月のピークを迎えるとそこに3、40人が常にひしめくとのことだった。
ベッドのお尻が当たるところに穴が開いていた。そこから直接下痢の便を出してもらうのだそうで、幾つかのベッドの穴の下にはバケツが設置されていた。「コレラは尋常でない下痢になりますので」と谷口さんが教えてくれた。
さらに教わったところによると、大地震からの5年間に70万人以上の人を苦しめたコレラは(死者はおよそ9000人)、もともとハイチに存在した病気ではなかった。2010年の大地震の際、救助に来た外国人からもたらされて感染が拡大してしまったのだ。皮肉といえば、それほど皮肉なこともなかった(MSFがその感染源だったわけではないのに、彼らは入院した42万人の半数を治療した)。
また、もし妊婦がコレラに感染していた場合が難しく、隔離をしながら医師の判断で帝王切開か自然分娩かを決める。責任重大かつ繊細な観察と高い技術の必要な医療のひとつだろう。
まだ患者の少ないテントから、ピーク時の緊張を想像するのはなかなか困難だった。けれども、ベッドが埋まり、さらに患者が駆け込み、誰もが際限なく下痢をし、高熱にさいなまれるとすれば、スタッフは昼夜を徹して救護を行い、しかし施設の外の街にゴミが浮き、汚水が流れている現実の前に力を落とすに違いない。構造から国自体を変えなければ、患者は減らないのだから。
そして治安の関係で、夕方には病院を出て宿舎に帰らざるを得ないのだ。
我々は最後に屋根だけがある広い受付で、たくさんの木製ベンチに座っているハイチ市民が風に吹かれながら辛抱強く順番を待つのを見た。どうやら輸血の呼びかけらしい絵が壁にかけてあって、その素朴さに心ひかれながら考えてみれば、ハイチの識字率が低いのだった。それで病院からの訴えが絵になる。
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