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沖縄の護国神社(1)

ニューズウィーク日本版 / 2016年8月13日 6時42分

 一方、神道の伝来は日秀より早い十五世紀と言われるが、確かな年代や経緯は分かっていない。十五、六世紀頃は琉球王朝の黄金期にあたり、各国との交易や交流が盛んだった。その際、当時の日本で流行していた熊野信仰が商人や僧侶らによって持ち込まれたらしい。この新しい外来の神は琉球の神々より強い力を持つと思われ、王家や役人らに信仰され、首里や那覇といった政治経済の中心地に社が建てられた。それが沖縄における神社の始まりと考えられている。

 そんなわけで、今も沖縄では、神主は「ユタの男性版」だと誤解されることも多い。「神社の人なら見えるんでしょ?」と期待され、エクソシストか霊媒師のような案件が持ち込まれることもある(2)。実に多様なものが混然と共存した信仰文化なのである。

沖縄戦と護国神社

「新しい」宗教である神道のうちでも、護国神社そのものが神社界の新興宗教である。

 護国神社については先行研究が少なく、特に沖縄の護国神社や神道を扱った活字資料は、長く事務局長を務めた義父・加治順正と現宮司が書いたものが基本になる。以下の神社史の多くは、加治順正がほぼ一人で仕上げた社史『沖縄県護国神社の歩み』(二〇〇〇年、以下『歩み』と略称)に基づく。

 一般に護国神社の起源は幕末維新期の官軍側の死者を祀った招魂社にあり、やがて近代日本の戦争で国に殉じた郷土出身者を合祀していった。戊辰戦争に縁の深い京都や鹿児島では創建が早く(慶応四年)、たいていは一県一社、北海道や岐阜県には三社ある。神奈川県は一社もなく、東京の招魂社が靖國神社となったため東京都の護国神社というものも存在しない。



 沖縄では一九一〇(明治四三)年に招魂社ができ、一九四〇(昭和十五)年七月に内務大臣指定の護国神社となった。その時点での祭神数は、日清戦争一柱、日露戦争一九五柱、満州事変二七柱など、計三一〇柱でしかない。当時の社司だった長嶺牛清の記憶によれば、「オ宮ノ状況ハ実ニミスボラシイ有様」で、仮本殿や拝殿も掘っ建ての「御粗末極マル」ものだったという。その年の十月の例大祭で支那事変四六柱、一九四一(昭和十六)年十月に大東亜戦争三二六柱、一九四三(昭和十八)年十月、大東亜戦争二四四柱が合祀されたが、沖縄にとって「近代日本の戦争」はまだ遠い火事だった。

 戦時中の神社がどんな様子だったかは、あまりよく分かっていない。開戦と同時に交代した社司は在郷軍人沖縄分会長で陸軍中尉の肩書ももち、一九四五(昭和二〇)年五月に戦死した。関係資料の殆どが戦闘で失われ、かろうじて戦火を免れた記録類も戦後の混乱期に散逸したという。だが今回、米海兵隊が六月二十八日に撮った写真を公文書館で見つけた。これを見ると、境内は戦火を免れたことがわかる(図1 *本記事冒頭の写真)。

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