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沖縄の護国神社(1)

ニューズウィーク日本版 / 2016年8月13日 6時42分

【参考記事】Picture Power「あの時代」と今を繋ぐ 旧日本領の鳥居

 ところが、長嶺の記録『護国神社の今昔と将来』によれば、戦後少しして神社を訪れてみると、「全ク涕ナクテハ拜マレナイ御姿」に変わり果てていたらしい。那覇周辺での戦闘が終わった時期の海兵隊写真には本殿や灯籠が写っているが、それらの基礎部分しか残っていなかった。樫の木でできた第二鳥居も、長嶺が一九四六(昭和二一)年二月に収容所から帰されたトラックからは確かに見えたはずが、いつの間にか忽然と姿を消して木切れ一片すら見当たらなかった。さらに後に見に行くと、境内には「豚小屋同様ナミスボラシイバラック」が建ち、石灯籠や玉垣も消えていたという。

 とはいえ、戦後に境内が荒廃したのは護国神社に限らない。波上宮(なみのうえぐう)は戦火に残った階段や参道の敷石まですべて剝ぎとられ、 世持(よもち)神社の拝殿は納骨堂になった。神も仏もない戦場で鴻毛(こうもう)より軽い死をくぐり抜けた者にとって、宗教施設の神聖どころでなかったのも無理はない。生き残った者は生きることに精一杯だった。

 護国神社には社務所だけが残ったが、 国場(こくば)幸太郎が住んでいた。佐野眞一が「沖縄のゴッドファーザー」と称した「沖縄財界の総帥」で、沖縄最大の建設会社・国場組創設者として知られる。戦時中は日本軍から請け負って沖縄中の飛行場を建設し、戦後は米軍の下で基地関係施設を建設し、本土復帰後は公共工事を次々に引き受けてきた。一族から国会議員も輩出し続ける沖縄版「華麗なる一族」の家長である。

 国場組の社史によれば、終戦の頃、境内には日本軍捕虜収容所と米軍の宿舎が設けられ、焼け残った社務所は米軍の隊長宿舎に用いられた。終戦後、近くの那覇港にアメリカから物資が陸揚げされ、境内の簡易宿舎は港湾労働者の住宅に転用される。昭和二一年十二月、アメリカ軍政府は国場を二〇〇〇人以上の労働者を束ねる「総支配人」に指名し、社務所の建物を「支配人宿舎」として割り当てたそうだ。国場は大富豪だったはずだが、最晩年まで社務所を増改築して住み続けた。

 労働者住宅となったバラック住宅は復帰後まで長く残り、神社の敷地の範囲も分からない状態だった。

※第2回:沖縄の護国神社(2)はこちら

[注]
(1)鳥居に関する余談だが、沖縄には神社は少ないが鳥居は多い。来訪神を祀る御嶽という聖地は何も置かれないものだが、鳥居だけ建てられることがある。また、在沖アメリカ軍基地にも鳥居が多い。基地のゲートや看板によく描かれ、随所に小さな鳥居の模型が立つ。特にグリーンベレーが駐留する通信施設は「トリイステーション」と呼ばれ、入り口に大きな鳥居が横に二つ並んで奇妙である。なぜ軍事基地に鳥居なのか、米軍に問い合わせた神社関係者はまだないらしい。「では、問い合わせましょう」とうちの宮司を促すと、断固拒否された。

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