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ジャニーズと戦後日本のメディア・家族(前編)

ニューズウィーク日本版 / 2016年12月28日 6時32分

 論壇誌「アステイオン」85号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、11月29日発行)から、周東美材・東京大学大学院情報学環特任助教による論考「いつも見ていた『ジャニーズ』――戦後日本のメディアと家族」の一部を、2回に分けて抜粋・転載する。  SMAP解散騒動により、改めてその存在の大きさ・特異性に注目の集まったジャニーズだが、その1962年4月の誕生から振り返った周東氏は「『ジャニーズ』が日本社会において日常化していったという事実には、戦後日本が東アジアのなかで経験した独自の歴史が色濃く刻印されている」という。果たしてジャニーズとは何なのか。それは東京・代々木のワシントン・ハイツから始まった――。

(※なお、本稿では、最初の4人組グループのジャニーズを指すときには〈ジャニーズ〉と表記)

(上写真:ソノシート付き絵本『バットマンダイヤモンド強奪計画』日本ビクター出版株式会社、1966年。〈ジャニーズ〉はフジテレビなどで放送された「バットマン」の主題歌を歌った)

それはワシントン・ハイツから始まった

〈ジャニーズ〉を生み出したのは「アメリカ」だった。東京・原宿駅から徒歩数分のところに、代々木公園という都内では有数の大きな公園がある。この地には、かつて「ワシントン・ハイツ」と呼ばれた米軍住宅地区があった。金網で仕切られたフェンスの向こう側には、色とりどりの屋根をもった瀟洒な白壁の家屋が並び、緑と芝生に囲まれた「アメリカ」の生活の姿が、映画セットのように広がっていたのである。〈ジャニーズ〉を発案したジャニー喜多川は、このワシントン・ハイツで暮らしていた。

 ワシントン・ハイツは、一九四六年に着工、その工事規模は約二七万七千坪の敷地面積のなかに、礼拝堂、劇場、クラブハウス、小学校、PXなどの公共施設と八二七戸の住宅を建設するという大規模なものだった。その住宅は、アメリカ人の生活様式に即して建てられた家屋「デペンデント・ハウス」であり、電気冷蔵庫や電気洗濯機など、当時の日本人には馴染みのない電気機器が備えられた。デペンデント・ハウスが提示するアメリカ式生活様式は、これからの日本人が目標とすべき生活の姿とされ、電気機器の製造は、三菱電機、日立、東芝、松下電器産業(ナショナル)など国内メーカーが受注していた(小泉・高藪・内田一九九九:七二‐七五)。

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