鍋をかぶった小さなデモ隊──マニラのスラムにて
ニューズウィーク日本版 / 2017年4月27日 17時45分
やがて受付の女性が小さく鼻歌を歌い出した。それが雨の音と重なると自分の気持ちまで湿ってくるように感じた。バイクが行き過ぎる音がした。鶏が鳴いた。鼻歌はまだ続いている。
五十五歳の俺は暗がりに立ち、自分が子供であるように今度は肌全体で実感していた。雨の日にいじけた気持ちになって一人で部屋で留守番していた思い出が、ほとんど思い出でなくその時間そのものとなってなぜか異国で俺を包んでいるのだった。
俺はもう俺ではなく、いや逆に本当の俺は子供で見知らぬスラムにおり、それが想像上の豊かな国に住む中年の俺を一瞬夢見ているようにも思った。暗がりと雨と女性の鼻歌と赤ん坊の匂いがそうさせていた。
雨は続いた。
<続く>
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
いとうせいこう
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