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ピュリツァー賞記者が綴る、戦場を渡り歩いた末にたどり着いた「末期がんとの闘い」と生きる喜び

ニューズウィーク日本版 / 2024年4月5日 10時28分

タイ軍が私たち記者を連行したのは、私たちがカンボジア側でタイ兵の姿を目撃したことに腹を立てたからだった。タイの兵士は国境を越えることを禁じられていた。

筆者(1979年撮影) MATTHEW NAYTHONS

加えて私はタイ軍が、カンボジアでベトナム軍と戦うゲリラ部隊を指揮していることも知っていた。報道するどころか、知られるだけでもまずい事実だ。そこで私たちを拘束し、翌朝処刑すると言い渡した。

私は不快だが避けようのない事態に直面すると、ありがたいことに体が反応する。眠ってしまうのだ。

例えば輸送機で航空母艦に着陸するのが、私は怖くてたまらない。湾岸戦争中、ジャーナリストは航空母艦で何週間も過ごすことが珍しくなかった。

着艦する際、輸送機は時速160キロを超えるスピードで母艦に接近しつつ尾部から拘束フックを出し、これを甲板に渡された直径8センチほどのワイヤに引っかける。機体はワイヤに引っ張られて甲板にたたきつけられ、急停止する。

これに耐える唯一の方法は、睡眠モードに切り替え熟睡することだった。機体が甲板に激突して停止するたび私はビクッとして目を覚まし、生きている喜びをかみしめた。最近はそうした生の喜びをかみしめることが増えた。末期癌のなせる業だ。

歴史的瞬間を逃した絶望

処刑前夜、うつらうつらする私を見て仲間の記者たちは憤慨し、またけげんそうな顔をした。「この世で最後の晩を寝て過ごすのか?」とある記者が聞くので、私はこう返した。

「ああ。体をしっかり休めておけば、朝一であのフェンスを跳び越え、ジャングルに逃げ込めるからね」

兵士は話の内容は分からなくても、言葉の響きが気に食わなかったらしい。「フッパーク」と繰り返した。

目が覚めると、赤十字の代表団が来ていた。職員が私たちの名前を控えたところで、もう大丈夫だと安堵した。やがて記者が拘束されていることが報道され、国際社会は激しく反発した。

こうした国境地帯の小競り合いのさなかに、私は大事なことを学んだ。当時の私はタフガイ気取りの18歳のまま内面の成長が止まり、命に限りがあることを分かっていなかった。

態度を改めたのは、無意味な小競り合いが起きている前線にのこのこ出かけたある日のことだった。1人の兵士が頭部を撃たれると、錯乱した同志たちが私に銃を突き付け、レンタカーで病院に運べと迫った。

撃たれた男と私は先ほどまで並んで立ち、銃弾が頭上をかすめる音に耳を澄ましていたのだ。弾が命中するのが彼ではなく私が殺されていても、不思議はなかった。

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