売り上げ重視の出版業界と、作法が厳しい学問の世界は、どちらが「自由」なのか?
ニューズウィーク日本版 / 2024年6月19日 11時0分
この裁判では、両親は誤診による自分たちの損害だけではなく、苦しんで亡くなった子自身の損害を請求していた。苦しむだけの生なら生まれなかった方がいいのか。それは損害と言えるのか。この裁判が投げかけた問いは、法律だけでは答えがでない。
ゲノムを使った検査は出生前診断からがんの治療まで広がっているが、急速な科学技術の発展にのみこまれ、葛藤に引き裂かれている人たちがいる。流されるだけではなく、足を踏ん張って、リスクを知ることとは何か、命を選ぶこととは何かを考えてみたいと感じていた。
そこで知ったのが、ELSI(Ethical, Legal and Social Issues)と呼ばれる科学技術の倫理的・法的・社会的課題についての研究だった。
科学はそれ単体で成り立っているのではない。法的な問題に加え、倫理的、社会的なアプローチから総合的に考えていくという理念は、まさに私が今学びたいと考えていた知であった。
そして、私がアカデミズムの世界に飛び込んだのにはもう1つの理由がある。
アステイオン編集委員である武田徹氏の『日本ノンフィクション史──ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書)は、アカデミアとジャーナリズムの関係を考える上で、私が大きな影響を受けた1冊である。
武田氏は本書で、ノンフィクションは「確かさ」を作者の内面に帰属させ、外部から介入の余地をなくしてしまうため、反証可能性に向けて開かれていないと述べる。
確かに、ノンフィクションの世界では参考文献の記載がないものやどこで誰から聞いたか判然としないものもあり、科学的な命題となり得ないものも少なくない。
一方、アメリカでは1980年代にリテラリー・ジャーナリズムと呼ばれる作品が多く書かれたという。その特徴としては、「主題への没頭(Immersion)」、「記述の構造への配慮(Solicitude)」、「記述の正確さ(Accuracy)」、「語り口(Voice)」、「語り手の責任(Responsibility)」だといい、武田氏はその中でも「語り手の責任」に注目する。
なぜ日本ではこのような潮流が起こらなかったかといえば、ノンフィクションの語り手の社会的な位置付けを武田氏は指摘する。
アメリカではリテラリー・ジャーナリズムの語り手は執筆の一方で、大学で教鞭を執っており、そういった意味で「アカデミック・ジャーナリズム」でもあったという。経済的な基盤があるからこそ、商業的に売れるものにこだわる必要がなく、誠実な書き方にこだわることができた、というわけだ。
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