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AIと人間を隔てるのは「身体性」...コンサートホールで体を震わせることこそ「人間的」だと言える理由

ニューズウィーク日本版 / 2024年10月9日 10時55分

語らいがあって、演技があって、社交があって、喜んだり悲しんだりする。そういう一回性の自由が最大限担保される社会とは何かと考えれば、どういう社会がいいのかというのは世界人類に自ずと明らかだとは思うんです。

資本主義がいいとか共産主義がいいとかではなく、そういう一人ひとりの肉体に即した幸せに言及するしかないくらい、世の中はせっぱ詰まっているのかもしれないと思いますね。

洗練を守る社会装置として

田所 1986年からの文化や社会の変遷について考えてきました。最後になりますが、これから先『アステイオン』のようなメディアには何ができるでしょうか。

三浦 舞踊は自分の身体を躾けるという点では個人的ですが、まさにその躾によって集団行動を可能にさせもします。

つまり舞踊の本質は武術の本質、軍隊の本質に繫がっているわけですが、この連携にひとつ見逃せない事実があって、それは舞踊の洗練には宮廷が必要とされるらしいということです。宮廷があるところではどんな舞踊も洗練されていく。逆も真。インドネシアは小さな地域一つひとつに舞踊があるし、タイにもある。しかし、植民地時代の長かったフィリピンにはありません。

重要なのは、宮廷は権力ではなく権威の源でしかない、そしてその権威は身体のありようと密接に結び付いているらしいということです。優雅と洗練が価値の中心になる。たとえば沖縄には宮廷があったから、優雅と洗練が舞踊の価値の中心になった。

舞台に出て来る足の運び方一つで演者の力量がわかる。芸の洗練は宮廷を必要とするというのは、いわば不都合な真実のようですが、そうではない、むしろたとえば山崎正和のいう社交の本質、文明の本質はそういうところにこそ潜むのではないか、と考えることもできる。

先ほどの若い世代の生き方の問題を解く鍵のひとつではないか、と。これは考え始めると奥が深くて、中国では宋代、つまり北宋、南宋が手がかりになるのではと思っていますが、『アステイオン』ではそういうことも論じてほしい(笑)。

片山 雅びと洗練ですね。佐治敬三さんや堤清二さんが一言言えば、「この現代音楽にこれくらいお金が出る」とか「この人に演奏を頼んでもいい」という世界がかつてありました。そうやって個人の判断によって残されるべき文化芸術が担保されてきました。

それが、80年代後半になると顕著ですが、「近代の徹底」と称して、公益性や透明性のチェックが進みます。こうした「みんなの納得」が最大価値になると、どうしても大衆的な価値観と結びついていきます。公益財団法人となれば「事業でどれだけの実績をあげていますか」と結局は数字の問題になってしまってどんどん窮屈になり、こういうホールでやってほしいものがやりにくくなっている。

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