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【逆説の日本史】清朝皇族と大陸浪人の交流から生まれた「満蒙独立運動」

NEWSポストセブン / 2024年7月24日 16時15分

 オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア人の分離・独立など認めない。一つでも認めてしまえば、帝国自体が崩壊の危機に瀕することすらありうる。当然、帝国は分離・独立派を弾圧する。戦争のきっかけは、セルビア人ガヴリロ・プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺したことだったが、その背景にはこうした民族対立があったのである。

 モンゴル人にも、中国に支配されている同胞を「解放」し「内モンゴル」などという「占領地域」を分離独立させたい、という思いが当然あった。そこで日本人は、満蒙独立運動を国力拡張の一つの選択肢として視野に入れるようになる。そのリーダーとも言うべき存在が、川島浪速であった。

〈川島浪速 かわしまなにわ
一八六五-一九四九
明治、大正、昭和時代前期の大陸浪人。慶応元年(一八六五)十二月七日、信濃国松本藩士川島良顕・栄子の長男として、松本北馬場町(長野県松本市)に生まれる。明治八年(一八七五)一家は東京に移住。のち外国語学校に入学し中国語を学ぶ。同十九年同校を退学、同年上海に渡航し、中国各地を見聞する。同二十二年病を得て帰国。二十七年日清戦争勃発、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦。二十九年台湾総督乃木希典の知遇をえて、台湾総督府官吏となる。三十三年義和団事件では再び陸軍通訳官として派遣軍に加わり、のちには軍政事務官を兼任し、警察業務にたずさわる。翌三十四年警務学堂を創設し、警察官の養成に尽力した。このころから清朝の粛親王、蒙古王喀喇沁らと親交を結ぶ。四十五年辛亥革命により清朝が滅亡すると参謀本部と通謀し、粛親王を北京から旅順に脱出させ、同王を擁して第一次満蒙独立運動を計画し、実行に移したが、政府の計画中止の命令により挫折し、同年帰国した。(以下略)〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊)

 経歴はまだまだ続くのだが、とりあえずこれくらいにしておこう。というのも、川島は生涯二度にわたって満蒙独立計画を実行するのだが、これはその一回目のものだからだ。じつは、その二回目が実行された時期こそ大正初期の大隈重信内閣の時代だったのだが、その内容を深く理解するためには一回目の試みも知っておく必要がある。そのためには、まずキーパーソンである粛親王を知らねばならない。粛親王とは家の名前で、個人名では無い。日本の宮家のようなもので、歴史上「三笠宮」が一人だけで無く何人もいるように、粛親王も世襲で何人もいる。しかし、歴史上「粛親王」と言えば、それはこの時代に活躍した粛親王善耆のことを指すので、彼の経歴を紹介しよう。

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