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【逆説の日本史】「極早生」なのに「多収」で「良質」な「農林1号」という奇跡のコメ

NEWSポストセブン / 2025年1月21日 16時15分

 桓武天皇は東国をも大和朝廷の領土に加えようと征夷大将軍という役職を新設し、任命された坂上田村麻呂は東国のエミシに勝って現地を占領した。彼らの頭領はアテルイと呼ばれていたからあきらかに大和民族とは違う民族だったが、これ以降彼らは「安倍」や「清原」などと改名させられ「俘囚」などという屈辱的な呼ばれ方をされたうえで、弥生文化に取り込まれた。具体的に言えば、稲作に従事させられたのである。

 狩猟文化を支えていた森林は次々と開墾され、田畑になった。大和朝廷は、コメを「租(もっとも基本的な税)」とするコメ政権だ。だから稲作を強制したのである。ちなみに、エミシの一部は北海道に逃れ蝦夷つまりアイヌ民族になったと考えられるのだが、大和朝廷がそれを深追いしなかったのには理由がある。もうおわかりだろう、熱帯原産のイネは東北までならかろうじて栽培できるが、寒冷な気候の北海道ではそれが不可能だったからである。コメ政権にとっては無用の地なのである。

 しかし、いくら東国、もっと具体的に言えば東北や上越や北陸で稲作ができると言っても、それは夏の一時の暑さを利用したバクチのようなもので、ちょっとでも冷夏になれば凶作になる恐れがある。この時点で東国の民は西国に対して大きなハンデを背負わされたのである。稲作競争においては温暖な西国のほうが絶対有利だからだ。コメ万能の世界では「東北は貧しい」ということにもなる。西国の「官軍」が東北を攻めた戊辰戦争でも、官軍の連中が「白河以北一山百文」と嘲笑したのも、こうした意識が背景にある。

 収穫量だけの話では無い、コメ自体の味も西国のほうがはるかに上だった。「早生と晩生」という言葉をご存じだろうか? 筆者は早稲田大学の出身だが、ミカンやリンゴでは無くイネの場合は「早稲」と書く。栽培期間が短く早く収穫できるイネの品種を総称してこう呼ぶ。北陸、東北地方のイネはすべてと言っていいほど早稲であった。西国ではほとんど心配いらないが、東国ではダラダラ栽培していると冷害に襲われる危険性があるからだ。

 ところが、一昔前までの農業では「早生は不味い」というのが常識であった。栽培期間が長く地中の栄養分をたっぷり取り入れることのできる晩生にくらべて早生が不味いのは理の当然だ。晩生の典型的な作物である朝鮮人参は、何年もかけて地中の養分を吸い上げるではないか。つまり米騒動が始まった北陸の富山県でも波及した新潟県でも栽培されているのは早稲で、言わば不味いコメであったということなのだ。

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