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【逆説の日本史】「極早生」なのに「多収」で「良質」な「農林1号」という奇跡のコメ

NEWSポストセブン / 2025年1月21日 16時15分

 明治になって維新政府が北海道開拓に乗り出したのは、放置しておけばロシアに奪われる危険性があったからで、コメを栽培しようとしたわけでは無い。そもそも当時は北海道で栽培できるイネなど無かった。だが、現在は北海道の一部でもコメが穫れるようになった。おわかりだろう、コシヒカリなどと同じく「水稲農林1号の子孫」だからこそ、それが可能になったのだ。

 このことを再び書いたのは、並河成資の功績を知らない人があまりにも多いからだ。江戸時代、東北地方屈指の大藩である南部藩では冷害による飢饉があたり前だった。元はと言えば、大和朝廷が東北地方には不向きな稲作を強制したせいなのだが、その結果多くの餓死者を出した。

 これ自体はフィクションだが、小説『壬生義士伝』(浅田次郎著)に登場する「新選組で一番強かった男」吉村貫一郎は実在の人物で、彼の生まれた南部がいかに貧しく飢饉に悩まされていたか活写されている。嫌な話だが、江戸時代の日本で「餓死がもっとも多い国」は南部藩だったのである。それを変えたのが並河だ。

 南国ながら火山灰大地でコメがまったく穫れず餓死者の多かった薩摩に、琉球からカライモ(いわゆるサツマイモ)を持ってきた船乗り前田利右衛門は「カライモオンジョ」と親しまれ神様として神社に祀られている。薩摩から餓死者を一掃したからである。並河は南部藩も含めた「東国」から餓死者を一掃した。時代が違うとは言え、北陸、東北の人々はあまりにも「冷たい」と思うのは私だけだろうか。「水稲農林1号」はそれまでのイネとはまったく違うもので、私は別の品種名をつけたほうがいいとすら思っている。

 さて、話を一九一八年(大正7)に起こった「大米騒動」に戻そう。この騒動は、凶作が引き金では無かった、じつは、寺内内閣がシベリア出兵に踏み切ったことで当然「兵糧米」の需要が高まると感じた大地主や相場師が、「買占め、売り惜しみ」に走ったことがきっかけだった。

 そもそも日本は、第一次世界大戦の混乱によって、とくに工業が発展したことはすでに述べた。繰り返せば、機械製品に強いイギリス、化学製品に強いドイツがともに交戦国となり、世界の需要を賄えなくなった。そこで、品質は劣るものの安価な日本製品が輸出商品としてもてはやされるようになり、当然ながら生産量も増えた。それは、これまで地方で第一次産業である農業に従事していた若者が、都会の工場で第二次産業である工業に従事するようになったということだ。

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