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戦国大名も「部下の仲違い」に悩んでいた

プレジデントオンライン / 2018年9月25日 9時15分

明治大学教授の清水克行氏(撮影=プレジデントオンライン編集部)

戦国時代など日本中世史をテーマにした本が静かなブームになっています。そこにまた画期的な一冊が登場しました。明治大学教授の清水克行さんの新著『戦国大名と分国法』(岩波新書)です。「分国法」を正面から書いた新書はこれまでありませんでした。日本の歴史上「最もカオス」という時代に、なぜ戦国大名は「法」を定めたのか。そのひとつは「部下の仲違いに悩んでいたから」でした――。(前編、全2回)

■現代人の価値観を揺さぶるものを発見したい

歴史の研究者には二つのパターンがあると僕は思っているんです。

ひとつは過去の時代と今の時代とに同じものを見つけ、遠く離れた人々を等身大に捉えることに醍醐味を感じるタイプ。もうひとつは同じ列島に暮らしていた人たちが、ほんの数百年という時間をさかのぼるだけで、こうまで性格から文化まで異なるのか、という違いの発見に研究の喜びを見出すタイプです。

僕は明らかに後者のタイプで、現代を生きる自分たちの価値観を揺さぶるものを、歴史の中に発見するのが好きでしてね。

何しろ中世というのは日本の歴史上、最もカオスな時代なんです。彼らの社会は犯罪があっても自力救済が基本で、とにかく名誉を自分の命よりも大切にするところがある。現代人の想像を越える激しい感情の起伏と行動力が、当時の日本人の特徴です。僕が「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」という法律や「耳鼻削ぎ(みみはなそぎ)」といった刑罰を研究してきたのも、そこから彼らのものの考え方や心の有り様が、ありありと浮かび上がってくるからでした。

■「耳鼻削ぎ」は女性の死刑を回避する温情措置だった

例えば、「喧嘩両成敗」と聞くと、「喧嘩したら二人ともぶっ殺すぞ」という強圧的で野蛮な印象を抱くかもしれません。しかし、当時の公家の日記から喧嘩の話が出てくるものを集めてみると、どうやら単に野蛮だと言って片づけられるものではないんですね。

中世の人々は前述のように名誉や仲間を何よりも重視するため、喧嘩を始めると関係者が徒党を組んで死ぬまで闘い始めたりします。互いの被害を同じレベルに抑えて手打ちにする「喧嘩両成敗」の制度は、そのなかで喧嘩をエスカレートさせないための知恵でもあったわけです。

「耳鼻削ぎ」も中世の残虐さを表すエピソードとして言及されますが、記録をよく読めば実は女性に対する刑罰であったことが分かる。男性であれば死刑が適用される罪に対して、女性には鼻削ぎを適用する――というある意味では温情的な刑罰だったという理屈を見出したときは、中世の社会の世界観がまた少し分かったような気がしたものです。

そうしたテーマに興味を持ってきた僕にとって、戦国大名が「上から下」に向けて作った「分国法」は、これまで研究のなかで援用する程度の史料でした。

■「独眼竜政宗」の曾祖父は、住民の「近道」に悩んでいた

ところが、5年ほど前に東京大学の桜井英治さんと、ひょんなことから伊達稙宗(だて・たねむね)の作った分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」をテキストに議論する機会があったんです(その議論は『戦国法の読み方』(高志書院)にまとめられている)。

稙宗は「独眼竜」として有名な政宗(まさむね)の曽祖父で、「塵芥集」は彼の手による全171の条文からなる分国法です。「塵(ちり)」や「芥(あくた、ごみ)」のような些末な条文まで収録したことを謙遜して名付けたとされるだけあって、あらためてこの「塵芥集」に正面切って取り組んでいると、そのレトリックや行間に稙宗の生々しい息遣いを感じ取れるような気がしました。

明治大学教授の清水克行氏(撮影=プレジデントオンライン編集部)

例えば、稙宗は「塵芥集」の中で、喧嘩や道路の往来の仕方から夫婦喧嘩に至るまで、こんなことまで必要かと思われるほどの細かな規定を定めています。とりわけ後半の条文になると、「路地を往来する者は、道端の家の垣根を壊し、松明にしてはならない。まして寺院の堂塔については言うまでもない」とか「近道をしようと封鎖してある道を突破して通ったら、侍ならば出仕をやめさせ、それ以外の者は追放とする」などと、中学校の校則以下の些末な規則まで定められているんです。

おそらく、当時の往来にはそうした行動に出る者が、ときおり出没していたのでしょう。しかし、だからといって一国の主である大名が、「近道禁止」の条文を自ら書くものでしょうか。その姿を想像すると、「戦国大名」という強面のイメージがぐらぐらと崩れていくようです。そして、それは僕の関心事である「庶民」や「戦国社会」の風景を、その向こう側に想像させるものでもありました。

■「法律のようなもの」をなんとか作ろうと悪戦苦闘

現在に伝わる戦国時代の分国法には、主に11の史料があります。今回、本の中ではそのうちの5つを中心に論じましたが、それぞれに大名やその領国のキャラクターを感じさせる面白さがありました。

分国法を読む面白さとは、社会のルールが慣習法によって成立していた時代において、各々の大名が試行錯誤しながら「法律のようなもの」をなんとか作ろうとしているところです。彼らの周囲には、法律の条文を作れるスタッフはいませんから、すべて自らの手でやるしかなかったのです。

たとえば伊達稙宗の「塵芥集」を読むと、文章を書き慣れていない人が一生懸命に「こんな感じかな」と作っているように見えるんですね。本来はもう少し抽象化するべき条文を、実際のケースをもとに作るものだから、法律とは思えないほどディテールが豊かなんです。

古代から律令制度を導入したように、日本にはしっかりした法律を導入してきた歴史があります。だから、当時においても「国家である以上は法が必要だ」と考える彼らのような大名がいた。ところが、社会の側がそこまで成熟していないため、背伸びをして法律を作らなければならなかった。そのために内容が非常に人間臭いんです。

■言うことを聞かない部下たちに対する愚痴

そうした意味でご紹介したいのが下総(現在の千葉県北部と茨城県南部)の大名・結城政勝(ゆうき・まさかつ)による「結城氏新法度」です。次に挙げるのはその条文を現代語に訳したものの一つです。

大して多くもない同僚たちの間柄を見てみると、いずれも縁者親類のあいだで、自分に正当性があるとしても、たがいに罵り合いをして騒ぎにおよぶのは、まったく見苦しい振る舞いである。ところが、さっきまで刀を突きたてていがみ合っていたかと思えば、今度は寄り添って飯椀(めしわん)に酒を差し合うようなことは、まったくバカげたことである。とにかく些細なことに腹は立てず、親類だとしても丁寧に筋道を立てて説明すべきである。まったく雑言まじりの騒ぎは、見たくもないことである。

ここからうかがえるのは、当時の領内では武士たちが親類同士でよく喧嘩をしていたらしいことです。そして、喧嘩をしていたかと思えば、次の瞬間には仲直りをして、仲良く飯茶碗で酒を酌み交わしている姿に、政勝がいらいらしていますね。

清水克行『戦国大名と分国法』(岩波新書)

これは果たして「法律」なのでしょうか。最後の「私はそういうのを見るのが大嫌いだ」といった感想に至っては、もはや言うことを聞かない部下たちに対する政勝の愚痴に聞こえます。

■ゼミで取り上げたら、笑いが絶えなかった

また、刑罰についても「聞き糺し、打ちひしぐべし」「ひと咎め申すべく候」といった表現が使用されており、なかには「もっちり」「いきほして」などという全く意味の分からない副詞が付いていることもある。戦国大名自身が東国の訛りを法律文書に残しているわけで、実に味わい深いものがあります。

私の明治大学のゼミでも、この「結城氏新法度」を取り上げたときは、笑いが絶えませんでした。当時の武士の暮らしぶりが、いきいきと描写されているからでしょう。

こうした分国法なのですが、現在に分国法が伝わっている10家ほどは、みな滅びています。一方、織田、徳川、毛利、上杉、島津といった戦国時代を代表するスター大名たちには、分国法が伝わっていません。これはなぜか。次回はこの「分国法のパラドックス」についてご紹介しましょう。(後編に続く)

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清水克行(しみず・かつゆき)
明治大学商学部 教授
1971年生まれ。立教大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門は日本中世社会史。「室町ブームの火付け役」と称され、大学の授業は毎年400人超の受講生が殺到。2016年~17年読売新聞読書委員。著書に『喧嘩両成敗の誕生』、『日本神判史』、『耳鼻削ぎの日本史』などがある。

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(明治大学商学部 教授 清水 克行 構成=稲泉 連 撮影=プレジデントオンライン編集部)

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