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小さくても潰れない企業はどこが違うのか

プレジデントオンライン / 2019年1月3日 11時15分

神奈川県横浜市にある東京ダイス。あらゆる物質の中で最も硬いダイヤモンド工具でしか研磨できない、超硬素材の超硬合金の研磨加工技術に優れており、それを活かした開発能力に定評がある。

高い熟練度を要する精密加工技術を武器に、流体制御機器、耐磨耗製品を扱い、大手自動車メーカーなどが自社で開発しづらいニッチかつ唯一無二の機能を果たすオンリーワン製品を提供している。

二代目社長就任後の38年間、ご多分に漏れず、景気や技術革新の波に揉まれてきたが、これまで赤字らしい赤字は3回のみという優良企業だ。なぜ、そこまで好調を維持できているのか。中沢孝夫・福山大学経済学部教授が解説する。

■受注生産型から開発提案型へ転換

もとは耐磨耗製品の受託加工を主に手掛けていたが、「受注量や売上高がジリ貧になり」(藤井克政社長)、その後現在の事業の大きな柱となっているのが流体制御機器。塗料や樹脂といった様々な粘度の「流体」を文字通り制御する機器を開発した。

実は、この変化は藤井社長が意識的に起こしたものだった。平たく言えば、注文通りの製品をつくる「受注生産型企業」から、時代の流れに自ら機敏に対応できる「開発提案型企業」へと変貌を遂げたのだ。

「私の前職は外資系塗装機メーカー。技術部で毎日実験を繰り返し、開発研究者として製品づくりに励みましたが、本国の本社に『こんな製品ができたから、日本で販売してもよいか』と尋ねると『君たちは我々が提供するものを売ればいい』と言われた。これが悔しかった」(藤井氏)

藤井氏が創業者である父・俊雄氏の後を継いだのは、俊雄氏が急死した38年前、28歳のときだ。高度成長期を終えた日本経済が2度のオイルショックで停滞していた頃だが、受託生産はまだうまくいっていた。

「しかし、パーツだけではなく機器の最終型までつくれる、つまりアセンブリを請け負えなければ将来生き残れない、という志を持って継ぎました。頭と手にため込んだノウハウでもっと飛躍したかった」

ただ、社長が1人で張り切っても、社員がついてこなければ意味がない。

「目標を掲げて、社員を振り向かせるための努力を5年以上続けて、ようやく特許第1号製品が出ました」藤井社長はそう振り返る。

「受け身の受注生産でやってきた社員たちが、すぐに開発提案型に変われるはずがありません。だから私は、営業に回って帰ってくると、夕方から前職と同じく毎日のように社内で実験を行ったのです。実験は根気が要りますが、成果が出るととても楽しいんですよ。その過程を見せる。社員へのパフォーマンスでした」

■社長も社員も開発仲間、手柄を独り占めしない

当時の藤井社長を突き動かしていたのは、「技術を持っているのだから、単なる加工屋で終わりたくない」という熱い思いだった。本社工場を創業の地、東京・目黒から大田区の工業団地に移した1986年に、設備を強化して覚悟を決めた。

「そんな私を見て、皆最初は引いていました。しかし、悪戦苦闘する私を遠目で見ていた社員の中から、『これ、使ってみて』と、ぴったり合うバルブセットの一部品を持ってくる者が出てきた。弊社にいる人間は職人軍団。本当は一人一人がアイデアを持っていますから、モタモタしている私を見ていられなくなったんでしょう(笑)。いつの間にか、私が設計したものをバラして、意図する効果が得られそうな部品をつくってくれていたんです。うれしくて、目がウルウルした瞬間でしたね。それが糸を引かない素晴らしいバルブの完成につながりました。弊社の特許第1号。94年でした」

とはいえ、藤井社長は特許を社員と共同名義にし、手柄は独り占めしない。自分も社員も開発仲間というスタンスを可視化することで、職人肌の社員たちの開発志向とポテンシャルを引き出すのだ。以来、多くの特許製品を生み出してきた。

「特許を取得すると皆の意識がガラリと変わり、開発志向が高まりました。『社長、次は何をやるのか?』と尋ねるようになった社員に『いや、ノーアイデアだよ』と。私1人では、特許に結びつくアイデアなんて簡単には出てきません」

さらに専任の設計者も雇い、研究・開発に参加する者が増えてきた。

「職人軍団って、『やれ』と言われたら動かないんですよ。自ら動きたいと思わない限りテコでも動かない。だけど、“次に特許を取るのは自分”という目標ができたら強いですよ」

藤井社長の表情は誇らしげだ。

■代替の利かぬ技術で受注元と“協力関係”に

新しいニーズや価値を考え出し、課題を設定し、その実現に向けた方法論を考案する。それは試行錯誤と経験則に裏付けられた判断を経て成し遂げられる。どこかの「ビッグ・データ」に問い合わせれば事足りるのなら、それは付加価値が限りなく低い仕事である。

高い熟練度を要する精密加工技術が武器

現実の職場・仕事は、ルールや方法の基本はあっても、イレギュラーや思いがけない出来事の連続であり、その場ごとに乗り切る「知恵」こそが仕事の基礎である。

東京ダイスは今、そのアナログな「知恵」のデジタル化(数値化)を進めている。どういうことか。例えば、ベアリングとシャフトの間の隙間は2~3マイクロメートル(1マイクロメートルは1ミリの1000分の1)だが、その内径加工を行うのは、昔も今も「熟練の技」。それを誰もが再現可能とすべくデジタル化し蓄積することで、長期的な競争力を保とうというのだ。

古い職人は、地震・高熱などほんのわずかな環境の変化で生じる10ミクロン、15ミクロンの狂いを見逃さない。研磨機や切削機を操り、目盛りに頼らず音や削り滓の濁りや臭いで嗅ぎ分けて20ミクロン手前で止める――そんな職人技の数々を、数千万円を投資した“デジタル機器”に取り込む。各機械メーカーと東京ダイスのオリジナルだ。

それゆえ、例えば大手自動車メーカーから塗装用のスプレーやノズル、跳ねた石からボディー(特に床の外装)を守る樹脂を吹き付ける機器等々、特殊で高水準の注文が舞い込む。メーカーの要請を超える水準を実現する能力が頼りにされている。

東京ダイスの仕事は一見、地味ながら「ほかに代替が利かない」競争力を持つ。工場の設備・機器の自動化(ロボット化)の依頼への対応力が抜きんでている。日本の製造業の会社数は約27万社(個人事業所は含まず)で、その99.3%が中小企業。また27万社の半数がBtoBだ。BtoBとは単なる下請けの上下関係ではない。協力メーカーなのだ。東京ダイスはそうしたメーカーの代表例といっていい。企業にとって最も大切なのは規模の大小ではない。固有の競争力を持っているか否か、である。

社員の潜在能力と開発志向をどう引き出すか
●本社所在地:神奈川県横浜市
●社長:藤井克政(1951年生まれ、2代目。グラコ社を経て79年入社)
●従業員数:32名
●沿革:1948年、克政現社長の父、俊雄が創業。超精密加工技術を活かした流体制御機器、耐磨耗製品、ノズルや医療機器の精密加工を手掛ける。2016年に大田区から横浜市に移転。現在34歳の甥、亮平が3代目となるべく約1年前に入社。

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中沢孝夫
福山大学経済学部教授
1944年、群馬県生まれ。全逓中央本部勤務の後、立教大学法学部卒業。約1200社のメーカー経営者や技術者への聞き取り調査を実施、具体的なミクロ経済分野を得意とする。著書に『世界を動かす地域産業の底力:備後・府中100年の挑戦』『グローバル化と中小企業』『中小企業新時代』ほか。

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(福井大学経済学部 教授 中沢 孝夫 構成=中沢明子 撮影=永井 浩)

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