なぜ犬養毅は"話せばわかる"と言ったのか
プレジデントオンライン / 2019年5月15日 9時15分
■なぜ“軍部の言いなり”だった人が殺されたのか
1932年5月15日、総理官邸に海軍の青年将校らが押し入り、ときの首相であった犬養毅(いぬかい・つよし)を殺害した。頭部を撃たれた犬養はそれでも意識があり、テルという名の女中に、「今の若いもんをもう一度、呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」と、言ったという。
話せばわかる――世にいう5.15事件における、犬養の最期の言葉とされてきたものだ。
ノンフィクション作家の堀川惠子さんの新刊『狼の義』(KADOKAWA)は、この犬養毅の生涯を描いた評伝である。
「日本近現代史の研究のなかで、犬養はほとんど顧みられてこなかった人物だと言えます。私にとっても最初は、名前はとても有名だけれど、実はよく知られていない人物だというイメージがありました。日本の近現代史の本では『犬養は軍部の言いなりだった』と簡単に切り捨てられることも多いのですが、では、なぜ軍部の言いなりだった人が殺されたのか。そんな疑問もありました」
■2017年に他界した夫から託された仕事だった
そう語る堀川さんが犬養の評伝を書くことになったのは、共著者である夫の林新さんから託された仕事だったからだ。
林さんはNHKのプロデューサーを長くつとめ、NHKスペシャルの大型企画「ドキュメント太平洋戦争」のビルマ・インパールの回などを手掛けてきた。その彼が20年以上前から関心を抱いてきたのが犬養だった。だが2017年に病気で他界。自宅には膨大な資料が残された。
「夫が犬養について本を書くと私に打ち明けたのは2007年のことでした。実際に書き始めた2017年に病状が悪化し、この仕事を私が引き継ぐのだと覚悟を決め、資料を読み始めたんです」
1855年(安政2年)生に岡山で生まれた犬養毅は、13歳で明治維新を迎えた。明治9年に慶應義塾に入り、在学中には郵便報知新聞の記者として西南戦争にも従軍。その後、大隈重信の結成した立憲改進党に入党し、大隈の懐刀として頭角を現す。
明治23年の第一回衆議院選挙に当選してからは、ほとんどの時期を野党所属の議員として、藩閥政府に抵抗し、日本に政党政治を根付かせるために力を尽くした。大正時代における憲政擁護運動や普通選挙法の実現など、「憲政の神様」とも呼ばれたことでも知られる。そして、1931年に立憲政友会の総裁として首相となった1カ月後、5.15事件で暗殺されることになる――。
■批判に一切弁解しない「カッコよすぎる」姿勢の真相
犬養の残した実際の手紙などの資料を読むうちに、堀川さんは次のような思いに駆られたと話す。
「犬養というのは、実にカッコいい政治家なんです。凄まじい誹謗中傷を受けても決して反論せず、どんなに困難な状況に立たされも決して弱音を吐かない。それが人としての美徳なのだ、と。政治家として『男気』としか言いようのない気概を持っており、夫がこの人物にほれた理由がとてもよく分かる気がしました」
犬養は「木堂」という号を名乗った。これは論語の「剛毅朴訥近仁」を由来とするもので、〈意志が強く、飾り気がなくて口数が少ないのは道徳の理想とする仁に近い。仁、すなわち自己抑制と他者への思いやり。「木堂」の号を身にまとうことにした犬養は、そんな風に生きたいと思った〉と堀川さんは書いている。
ただ――と彼女は続けるのである。
「こうした犬養の姿は、私にはいささかカッコよすぎた。従来の資料から見えてくる犬養像には人間臭さが希薄で、なぜそこまでの批判に対して弁解の一つもしないのか、と理解し切れないものがあった。だから、当初はとっつきにくさを感じましたね」
■犬養の「カッコいい男気」が「やせ我慢」に見えてきた
「このままでは私の物語にはならない」と思った堀川さんは、犬養の側近だった一人の政治家に注目した。
「一人の人物の評伝を描くためには、書き手の側にそのための動機と覚悟、エネルギーが必要です。私は夫の仕事を引き継ぐに当たって、犬養と自分とをつなぐ何かが必要だと強く感じました。その中で出会ったのが、犬養の側近として影武者のように傍らにいて、戦後も吉田茂のブレーンとなった古島一雄という一人の政治家でした」
古島は一般的にはほとんど知られていない政治家で、資料も評伝としてまとまったものはなかった。ところが、いくつかの資料や聞き書きの回想録を手に取ってみると、「これまでとは違う犬養像が広がってきた」のだという。
「犬養は確かに男気にあふれ、分かりやすい程にカッコいい。でも、それが古島の目を通すと、その男気がやせ我慢に見えてきたり、曲げるべきところを曲げられない頑固さに映ったりする。この2人を主人公にすれば、新しい犬養像を提示できるのではないかと直感したんです」
■金と暴力による選挙違反が当たり前だった明治の政治
男気にあふれる「義」の人である犬養、その傍らでさまざまな調整役として奔走する古島。この2人の歩みを通すことで、堀川さんには何が見えたのか。
西南戦争の従軍記者時代から始まる犬養の生涯は、日本における最初の立憲政治の成立とその挫折と軌を一にしている。
明治22年の大日本帝国憲法の公布、翌年の日本初の選挙、大正14年の普通選挙法の成立……。そして、昭和7年の5.15事件によって政党政治が終わり、軍部の台頭によって戦争の時代へとなだれ込んでいく。
そんななか、堀川さんが本書で丁寧に再現していくのは、議会政治や選挙というものが日本に根付く前の原風景である。
■馬糞を議場で投げ合い、仕込み杖で武装して帰宅する
選挙では「選挙干渉」による死者が全国で生じ、金と暴力による選挙違反も大手を振って横行した。犬養も2度、活動家から暴行を受けて流血沙汰になっている。また、明治23年12月2日に始まる帝国議会の第一回議会での予算案の攻防を、堀川さんは次のように描写している。
民党と吏党、それぞれが雇った壮士も絡んで、議場は殺気立っていく。傍聴席に陣取る壮士たちは反対派の演説を騒いで妨害するのみならず、馬糞を紙に包んでは議場に盛んに投げ込んだ。馬糞の攻撃に、議員が「ひゃっ」と悲鳴をあげる。馬糞が着弾して紙から飛び出すと、ものすごい臭いが広がった。
院内の廊下に用意された帽子掛けの下には、多くの議員が仕込み杖(杖の中に刀剣を忍ばせたもの)を用意した。反対派の壮士に反撃するための武器だ。うっかり一人で帰ろうものなら人力車を襲われ、引きずり出されて殴られた。開会中に負傷者が相次ぎ、議院の前には個人個人の抱える壮士がたむろし、用心棒として家まで送るようになった。
これがわが国最初の「言論の府」の風景である。
堀川さんはこう話す。
「当時の様子を想像すると、日本人が自分たちなりの議会制民主主義を、どうにか切磋琢磨して作ろうとしていた時代があったんだな、という感想を抱きます。その渦中にいた若い犬養にとって、明治という時代は青春そのものだったと思います」
■伊藤博文にも絶賛されたという「政論集」の中身
政党政治を日本に根付かせようと奔走する犬養の原点として、堀川さんは彼が28歳のときに書いた政論集『政海之燈台』をあげる。
〈統治は『面白くもない算盤珠』だ。政党含めその他の者は、その中身を評価できさえすればよい。行政機関の仕事は政争の外に置き、政党は内閣に対して言論で対峙すべきだ。
政府の側も、『探偵』や『中止』という手段で集会演説を弾圧しているが、それが却って意志ある者たちを激高させている。言論の自由を拡大し、発言の機会を与えれば暴動は起きない。政治的な争いは『秘密の手段』ではなく『公然の手段』を用いて、正々堂々と言論を以て解決すべきである〉
伊藤博文にも絶賛されたというこの政論集で、犬養は政論を樹木にたとえ、その根本に「愛国心」を据えた上で、「国家」と「政府」を区別する考え方を述べている。
■「ダメな政府」であれば、愛国者として倒閣する
「このように国家と政府を峻別する考え方をしていた政治家は、現代の政治にも欠けている視点ではないでしょうか。立憲政治の実現を目指す犬養にとって、国家の根っこを支えるのは常に国民でした。その根が養分をしっかりと吸って成長していくためには、『政府=何でもしてもいい』ではダメで、場合によっては倒閣の対象にもなる。それが真の愛国と考えるのが犬養の思想であり、保守やリベラルといった二項対立では決してとらえきれない。これまで犬養という政治家が研究対象になってこなかったのは、その行動の複雑さも理由の一つだったはずです」
明治時代の議会が馬糞を投げ合っていたように、実際の政治では人間の欲望や感情がぶつかり合う。その渦中で闘う犬養のよりどころは、「ノブレス・オブリージュ」という言葉に尽きると堀川さんは言う。
「犬養に限らず、明治の政治家について調べていると、『政治を司る人間は良き人間でなければらならない』という信念を感じさせる人が多い。権力闘争や利益誘導などは今も昔も変わりません。しかし、当時の人たちは漢籍をよく読んでいましたから、そこから凝縮されたエキス、例えば『徳』や『義』といった言葉を感じさせる。議会ではとことんやり合うけれど、『ここは外してはならない』というボトムラインを感じるんですね。人間が生きていく上で外してならない部分、そして、政治家として最低限の倫理が彼らにはあったのだと思います」
■政党政治の理念が朽ちていく時代に、孤立無援だった犬養
だが、犬養の目指したルールの中で切磋琢磨していく立憲政治のあり方は、満州事変後の戦局の拡大によって変質していく。政党政治の理念が朽ちていく時代状況の中で、宰相となった犬養が孤立無援の闘いを強いられていった。その過程は本書『狼の義』の大きな読みどころの一つだろう。
「リベラリズムとナショナリズムのはざまで苦しみながら普通選挙法を実現し、ときに自分を曲げながらもどうにか前に進もうとしてきた。そんな犬養にとって、首相になったときの孤独感や絶望は深かったことでしょう」
犬養は1932年5月1日、「内憂外患の対策」と題する最後の演説を行っている。経済政策などの「内憂」について述べたあと、「外患」に話が移ると、犬養は冒頭から軍部を刺激するようなこんな言葉を繰り出すのである。
〈極端の右傾と極端な左傾が問題である。両極端は正反対の体形ではあるが、実はその感覚は毛髪の差であり、ともに革命的針路を取るもので実に危険至極である〉
さらに犬養は演説の終盤ではこうも語ったという。
〈侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい。政友会の内閣である以上は、決して外国に向かって侵略をしようなどという考えは毛頭もっていないのである〉
■日本が戦争に向かうのを、何としてでも阻止したかった
それから2週間後、犬養は官邸で銃弾に斃れた。堀川さんは言う。
「犬養のこの演説は当時あまりに危険なものでした。実際、夫の入手していた演説の音源と文書の記録を照らし合わせてみると、やはり激しすぎる箇所が削られていました。なにより私が衝撃を受けたのは、まさに命がけで話していることが分かる犬養の口調でした。満州事変の拡大は日本の破滅につながる。それを何としてでも阻止したい、という身をさらしての最後の抵抗であったことが伝わってくるようだったからです」
『狼の義』の冒頭に一枚の写真が掲載されている。観音開きのパノラマ写真で、犬養が総理になった際、お祝いにかけつけた地元岡山の大勢の支援者たちと写した一枚だ。岡山県の木堂記念館に所蔵されているものだ。本書を手に取った際は、まずこの写真を広げてみてほしい。
「この写真が撮影されたのは、暗殺の30日前のことです。犬養の信じた国民の力というものが、凝縮されている写真だと言えるでしょう。犬養は悲劇の総理ではあるけれど、一方でこれだけの人々に支えられてきた。そう感じさせる彼の政治人生の終着のような写真です」
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ノンフィクション作家
1969年生まれ。テレビ記者を経てノンフィクション作家。『死刑の基準』で講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命』で新潮ドキュメント賞、『教誨師』で城山三郎賞、『原爆供養塔』で大宅壮一ノンフィクション賞、『戦禍に生きた演劇人たち』でAICT演劇評論賞を受賞。
稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(文春文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 堀川 惠子、ノンフィクション作家 稲泉 連 写真=akg-images/アフロ 撮影=プレジデントオンライン編集部)
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