1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

元日本代表主将・長谷部誠の本質は「8番」にある

プレジデントオンライン / 2020年1月10日 15時15分

決勝トーナメント1回戦・日本-ベルギー。前半、指示を出す日本代表の長谷部誠=2018年7月2日、ロシア・ロストフナドヌー - 写真=時事通信フォト

子供の頃に熱中したスポーツは、人格形成に大きな影響を与えているのではないか。集団競技か、個人競技か。ポジション、プレースタイル、ライバルの有無……。ノンフィクション作家の田崎健太氏は、そんな仮説を立て、「SID(スポーツ・アイデンティティ)」という概念を提唱している。この連載では田崎氏の豊富な取材経験から、SIDの存在を考察していく。第4回は「サッカー」について――。

■現代サッカーでは「8番」が重要

サッカーとははじまりこそ、フォーメーションがあるが、その後、緩やかにポジションを変えていく。自分が直接相対する選手の能力、自分たちのコンディション、あるいは相手のフォーメーションに合わせてポジションを変更していく。強いチームであるほど、臨機応変にチームの形を変えることが出来る。2つと同じ試合はない。

そのため、同じ選手であっても試合によって役割が変わる。そして、サッカーの戦術の進化は激しい。ジーコやマラドーナのように試合をコントロールする「10番」は古典的になってしまった。ストライカーである「9番」でさえも、近年のスペイン代表が採用した、固定した9番を置かない「ゼロトップ」、あるいは9番のポジションではあるが、自らは囮になり中盤の選手の得点力を生かす「偽9番」というポジションもある。それでも10番、9番というだけで、未だにその役割は大まかに伝わる。

キーパーの1番を除いて流動的になった背番号的SIDの中で、「10」「9」と並んで重要だと思っているのは「8番」だ。

1982年のワールドカップでブラジル代表の「8番」を付けていたのはキャプテンのソクラテスである。そして何よりセレソンの「8番」の印象を決定づけたのはドゥンガだろう。ドゥンガは90年のワールドカップでは「4番」、優勝した94年と準優勝の98年大会で「8番」を付けている。

■ブラジル代表はまるで家族のようだ

ドゥンガと初めて出会ったのは、2002年5月、ドイツだった。デュッセルドルフでボルシアドルトムント対世界選抜のチャリティマッチが行われた。世界選抜に入った廣山望にぼくは同行したのだ。

世界選抜チームとは銘打っていたが、ニュージーランド代表だったウィントン・ルーファーを除けば、監督のマリオ・ザガロのほか、ベベット、アウダイール、タファレル、ドゥンガ、ジョルジーニョ、といった94年の優勝メンバーの他、ポルトガルリーグで得点王だったジャウデル、左利きのテクニシャンであるゼ・ロベルトなどブラジル人を揃えていた。

このチャリティマッチは、ジョルジーニョが生まれ故郷であるリオ・デ・ジャネイロに開いた貧しい子どもたちのための施設を支援するためだった。ジョルジーニョは鹿島アントラーズに加入する前、ドイツのバイエルン・ミュンヘンでプレーしていた。ドイツ時代の友人たちがジョルジーニョのために企画した試合だった。

ぼくと廣山はブラジル人たちと同じホテルが手配されていた。ジョルジーニョが気を遣ってくれて、ぼくたちはブラジル人たちと夕食を共にすることになった。敬虔なクリスチャンであるジョルジーニョは、食事前に祈りを捧げた。その後、ジョルジーニョはぼくと廣山のことをみんなに紹介してくれた。そこに少し遅れて到着したのが、ドゥンガだった。

この日の食事、記者会見、そして試合会場までのバス移動のすべてにぼくは付いて回ることになった。ザガロを中心として、ジョルジーニョとドゥンガがまとめている家族のようだった。ワールドカップを優勝する集団というのはこういうものなのだとつくづく思った。

■ドゥンガが貧民街に作った施設

ジョルジーニョにロマーリオが来ていないね、と話しかけると、ふっと鼻で笑った。あいつは仕方がないという風だった。

ジョルジーニョ、そしてドゥンガとはその後も付き合いが続くことになった。ドゥンガもまた出身地であるブラジル南部のポルト・アレグレに財団を設立し、慈善活動を行っていた。その1つがレスチンガという貧民街地区に作った『スポーツクラブ・シティズン』という施設だった。

2004年8月、ぼくは彼と共にこのスポーツクラブ・シティズンを訪れている。スポーツクラブという名前が付いているが、選手育成を目的としたスクールではない。

ドゥンガは施設を作った目的をこう教えてくれた。

「子供たちに社会の基本的なルールや、最低限のマナーを教えること。例えば、歯を磨くということを知らないという子供までいる。両親がきちんとした職についていないので、学校にも通えない。だから、勉強の手助けもしている。彼らに少しでも未来が開けるようにしたいと思っている」

ドゥンガによると、この地区の多くの家庭の月収は30ドルに満たない。食事は1日に一度か二度、口に入ればいいという程度だという。

「この街は冬はかなり寒い。しかし、防寒用の衣服もなく、子供たちは凍えて寒さをやりすごすしか手はない」

■和やかな雰囲気だが犯罪率の高い地区

ぼくたちが話していると、道を歩いている人がにこやかに笑いかけてくる。ドゥンガも手を挙げて挨拶を返した。和やかな雰囲気である。しかし、非常に犯罪率の高い地区である。

「この地区の人間、全員が悪い人間ではない。ただ、非常に犯罪率が高いことは事実だ。麻薬も簡単に手に入る」

ブラジルの大都市の周辺に貧民街が広がっていくのは理由がある。都市の魅力につられて、あるいは貧困から逃げ出して職を探して、農村部から都市へと人間が移動してくる。しかし、手に職のない人、学歴のない人間に仕事を見つけることは難しい。彼らはやむなく空いている土地に不法占拠をして、バラック小屋を建てる。それが次第に拡大していった。

暴力という種は、貧困という栄養を得てあっというまに茎をのばし、都市にからみつく。そして、暴力という果を実らせて、次々と新たな種をまき散らしていく。

“トラフィカンテ”と呼ばれるブラジルの新興マフィアは、少年たちにまずは“お使い”をさせ、多めの小遣いを渡し、組織の中に取り込む。そして次第に「重要」な仕事を任せていくのだ。貧しい少年たちの心を麻薬、金で掴むのは、難しくない。それに抗うには、地道な努力しかないのだとドゥンガは静かな声で言った。

■大声を出してチームメイトを叱咤激励

現役時代、背番号8を付けた彼は大声を出してチームメイトを叱咤激励していた。ジュビロ磐田にいたときは、強く言うと日本人選手たちが萎縮してしまうから抑えてくれと言われたのだと首を振った。

磐田のときはともかく、スター選手の集まるブラジル代表で何を指示していたのかと聞くと事も無げにこう返した。

「試合前に出されていた指示を忘れる奴がいるのさ。始まって20分ぐらいはロナウドたちも守備に力を割く。危ないときは(自陣に)戻ってくる。しかし、試合が進むと自分の役割を忘れる。指示を思い出させる人間が必要なんだ」

ロナウドは2002年ワールドカップで優勝、得点王となったブラジルを代表するストライカーである。98年ワールドカップでロナウドとドゥンガは同じチームになっている。

ドゥンガは9番の選手についてこう表現した。

「普通のリーグ戦ならば一試合で4、5回ゴールに繋がるチャンスがある。4、5回あれば1点は決められる。しかし、代表の試合はそうじゃない。相手のディフェンダーも集中している。2回チャンスがあったとしたら1回はゴールを決めなきゃいけない。鷲や鷹のように1センチの隙間でもあったらそこを目がけて突き進むぐらいの気持ちがなければ駄目なんだ。ロマーリオやロナウドはそうだった」

ただし、と付け加えた。

「一人の選手が全てを解決できるわけではない。彼らが違いを生み出すには、周りのサポートが必要だ。それがサッカーという競技なんだよ」

サッカーは様々なパーツを組み立てて走らせる自動車のようなものだ。エンジン、ハンドル、タイヤ、シャーシ、それぞれの役割がある。

得点を決める9番、ゲームを組み立てる10番、彼らの手綱を引く8番――さらに守備を固める4番のセンターバックや1番のゴールキーパーはチームという自動車の芯でもある。

■20番だが8番的な長谷部誠の本質

長らく日本代表の主将を務めた長谷部誠は、20番をつけていたが、8番的な選手だった。藤枝東高校から浦和レッズに入った直後、長谷部は攻撃的な中盤――10番の選手だった。恐らく、彼はそのポジションでは大成することはなかっただろう。彼を守備的なポジションに回したのは慧眼だったと言える。

近年彼はドイツでディフェンダーとして起用されている。彼のSIDは8番、あるいは4番にあったというべきだろう(フランクフルトでゴールキーパーが退場処分になった後、交代枠を使い切っていたため、長谷部が長袖のシャツを着てゴールキーパーを務めたこともある。ついに1番まで下がったのだ!)。

2番や3番、あるいは6番をつけることが多いサイドバックにも独特のSIDがある。それは“いじられやすい”ことだ。ぼくの経験では、ブラジルでもパラグアイでもフランスでも同じような傾向があった。

日本代表の長友佑都はどこのクラブに移籍してもチームメイトから愛されている。彼はまさにサイドバックのSIDを持っている。

その意味で前出のジョルジーニョは二番をつけた右サイドバックだったが、サイドバックっぽくはない。ジョルジーニョはサイドバックの他、守備的中盤――ボランチもこなした。本当はそちらの方が向いているのではないかとぼくは睨んでいる。ドゥンガがいなければ彼のポジションをジョルジーニョに任されたかもしれない。その意味で94年のブラジル代表には二人の8番的選手がピッチにいたことになる。あのセレソンは、面白みはなかったがしたたかで強かった、というのは腑に落ちる。(続く)

----------

田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。

----------

(ノンフィクション作家 田崎 健太)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください