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江戸時代、どれだけ厳しい取り締まりでもなくならなかったある職業

プレジデントオンライン / 2020年4月8日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/rudiuks

江戸時代、女性の髪を扱う理美容師の仕事は禁止されていた。歴史研究家の河合敦氏は「それでも庶民の間では大流行していた。厳しい禁令も、美しい髪型でいたいという女性の願いには敵わなかった」という——。

※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■女性が髪を結うようになったのは江戸時代から

「女髪結(かみゆい)」の話をしたい。女性の髪を結う、いまでいえば理容師・美容師のことだ。

女性がみな髪を結うようになったのは、江戸時代に入ってから。それまでは貴族や武士の間でも垂髪(すべらかし)が一般的だった。それが次第に髪の毛を束ねはじめる。当初は自分で結髪したり、友人や知人で結いあったりしていたが、次第に金を出して他人の手でオシャレな髪型にしてもらうようになった。こうして女髪結という職業が成立してくるわけだ。

ちなみに私が子どもの頃に通っていた近所の床屋は、行くと必ず天国か地獄か、どちらかの気分を味わされた。どちらかになるかは順番がくるまでわからない。店は父と娘で営業していたが、娘さんは超美人だった。襟足(えりあし)を剃ってもらうとき彼女の顔が間近に迫って来たり、散髪の途中、体が一瞬だけ私に触れたりする。ませガキだったので、天にも昇る気持ちだった。いっぽう父親のほうは、平気でゲップやおならをする嫌なオヤジだった。

だから女髪結と聞くと、私の脳裏には、あの美人理容師の顔が思い浮かんでくる。ただ最初の女髪結は、山下金作という男性だったというのが定説になっている。山東京山が随筆『蜘蛛の糸巻』で語ったものだ。

■歌舞伎役者のカツラのセットから始まった

京山はいう。安永年間(1772~1781)、上方歌舞伎の女形である山下金作は江戸にくだって深川に住みはじめたのだが、自分が芝居でつけるカツラを美しく結い上げていた。それを目にした深川のある芸妓が感激し、「私の髪もやっとくれ」と頼み込んだ。そこで銭二百文で結い上げたところ、なんとも見事な仕上がり。これが噂(うわさ)になって客が殺到、ついに金作は女性専門の髪結を渡世(とせい)とするようになったのである。

そんな金作に弟子入りしたのが甚吉という若者だった。彼はその技を修得すると、半額の百文で料理屋の仲居たちの髪まで結いはじめ、以後、「百」さんと呼ばれ、あちこちを回って大いに稼いだという。弟子たちも大勢できたのだが、彼らの多くも自立してさらに半額以下で仕事を請け負い、寛政年間(1789~1801)に入ると、手頃な値段の女髪結は大流行。誰もが髪を髪結に任せたので、女性は自分で髪を結うことができなくなるほどだった。

■松平定信が「風俗を乱している」と禁止令

ところがちょうどこの頃、老中松平定信が主導する幕府の寛政の改革が始まった。そして改革の一環として、なんと女髪結を禁止したのである。寛政七年(1795)十月のことだ。その理由について、禁令の内容を意訳して理解していただこう。

「以前は女髪結はいなかったし、金を出して髪を結ってもらう女もいなかった。ところが近頃、女髪結があちこちに現れ、遊女や歌舞伎の女形風に髪を結い立て、衣服も華美なものを着て風俗を乱している。とんでもないことだし、そんな娘を持つ両親はなんと心得ているのか。女は万事、分相応の身だしなみをすべきだ。近年は身分軽き者の妻や娘たちまでもが髪を自分で結わないというではないか。そこで女髪結は、今後は一切禁止する。それを生業(なりわい)とする娘たちは職業を変え、仕立て屋や洗濯などをして生計を立てるように」

質素倹約を改革の主眼としていた幕府は、近年の庶民女性の風俗は華美に流れており、その責任の一端は女髪結にあると判断したのだ。なお、この文面から、当時の女髪結はすでに女性中心の職業だったことがわかる。

■ほとぼりが冷めると平気で復活する

ちなみに『蜘蛛の糸巻』を著した山東京山は、この女髪結禁止令に賛成だったようで「彼かの百(金作の弟子・甚助)が妖風の毒を残しゝなり。然(し)かるに。維新の御時(寛政の改革)に遇(あ)ひて。此妖風一時に止まるは。忝かたじけなき事にぞ有りける」と述べている。しかしながら、この改革では京山の兄である京伝が、遊里のことを書いた洒落(しゃれ)本『仕懸(しかけ)文庫』を問題視され、手鎖(手錠をして生活する)五十日の刑に処せられている。

さて、江戸時代の面白さは、ほとぼりが冷めたら、法令は平気で破られることである。寛政の改革が終わり、将軍家斉の文化・文政時代(1804~1830)になると、風俗は大いに緩んで庶民の暮らしは贅沢(ぜいたく)になった。もちろん、またぞろ女髪結も現れた。ところが、である。

老中水野忠邦による天保の改革(1841~1843年)が始まると、庶民の娯楽は徹底的に取り締まられ、再び女髪結も廃業を迫られた。

天保十三年(1842)十月に出された禁令を見ると、「髪を結渡世(とせい)同様ニいたし候(そうろう)女」(女髪結)は、「重敲(じゅうたたき)」の罪に相当するとして「百日過怠(かたい)牢舎」(入牢)を申しつけ、その両親や夫も罰金「三貫文」相当の罪にあたるとして「三十日手鎖」。さらに家主も同様。また、髪を結ってもらった客も三十日の手鎖とし、客の親や夫は「過料三貫文」とすると書かれている。

■再度禁止されてもなぜか髪結は増えるばかり

それにしてもお金をもらって女性の髪を結っただけで、百日間も牢獄にぶち込まれ、客のみならず、女髪結の両親や家主まで処罰されるというのは尋常ではない。天保の改革が二年間で失敗に終わると、庶民が水野忠邦の屋敷を取り囲み、石を投げたり、屋敷の一部を破壊したのは心情としてよくわかる。

ちなみにこのときは、あの曲亭馬琴が『著作堂雑記』のなかで、

「天保十二年春ごろから女髪結を禁止され、今年十三年になって、それでもやまないので、女髪結だけでなくその客も召し捕られ、手鎖を掛けられるようになった。また町中に『女髪ゆい入べからず』という札が貼られるようになった。この女髪結というものは、文化年間から始まって次第に増え、貧しい裏長屋の女房や娘、あるいは下女までもが女髪結に髪を結わせるようになった。いまは自分で髪を結わない者ばかりだ。当初は客が髪を結うための油を出し、百文の代金を取っていたが、最近は女髪結が増え、安いのになると二十四文で髪を結ってくれる」

と記し、最後に「是らの御停止は、恐れながらもっとも御善政にてありがたき御事なり」と讃(たた)えている。その認識は、寛政の改革時の山東京山と同様である。

ただ、本当に女髪結を生業にしたからといって、処罰された人がいたのだろうか?

■「小遣い銭にも事欠くほど生活が苦しく…」

じつは、存在したのである。『長崎奉行所記録 口書集 上巻』(森永種夫編 犯科帳刊行会)にその事例が採録されている。長崎奉行所に残る裁判記録をまとめたもので、口書というのは江戸時代の供述調書であり、最後に嘘偽りがないことを証明するため拇印を押した書類だ。

弘化元年(1844)四月の記録に「女髪結」みつ(二十九歳)の口書があるので、その供述を意訳して紹介しよう。

「私は新橋町茂兵衛の娘です。先年、父が亡くなったので困窮し、寄合町の遊女屋忠三郎方で家事手伝いをしておりました。東浜町七郎太方にはよく出入りしているのですが、同家の娘もん(二十歳)やその下女かや(二十四歳)から髪を結ってほしいといわれ、鼻紙代として銭二十文を受け取り結髪いたしました。女髪結が禁止されていることは重々承知しておりますが、小遣い銭にも事欠くほど生活が苦しく、つい法を犯しました。逮捕されてお役人様から他所へも出入りして結髪で金を稼いでいるだろうと再三聞かれましたが、そんなことはございません。右のことについては一切、偽りはございません」

このように貧窮のあまり、結髪に手を出したようだ。なお、みつは手鎖の刑に処せられた。また、客となった「もん」と「かや」も取り調べられている。

もんがいうには「両親が先年死去したので造り酒屋を継承したが、持病の癪(しゃく)が長引いて自分で髪を結えなくなったので、元女髪結であったみつに仕事を依頼したが、それ以外、ほかの女髪結を用いたことはない」と誓っている。どうやら密告者があったようで、みつがもんの髪を結っている最中に長崎奉行所の役人が乗り込んできている。

■「髪結いの亭主」は明治時代に成立した慣用句

さて、このような摘発をおこなったにもかかわらず、一向に女髪結は姿を消さなかった。江戸の町奉行所は、嘉永六年(1853)五月三日、町の名主たちに「女髪結之儀ニ付御教諭」という通達を発した。そこには次のようなことが記されている。

河合敦 『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)
河合敦『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)

「かつて女髪結は厳禁されていたが、密(ひそか)に調べたところ千四百人あまりもいることがわかった。そのままにしておけないのですぐに捕まえるべきだが、このたびは特別な計らいで吟味の沙汰にはおよばない。とはいえ、そのまま放置できないし、女髪結がいると女子の風儀が奢侈(しゃし)に流れてしまう。

ただ、貧しさゆえに髪結渡世を営んでいるのだから、急に仕事を取り上げてしまうと困る者があるだろう。そこで今後は、毎月初旬に町の家主たちを集め、町内に女髪結がいないかを問いただし、もしいたら説諭を加えて商売替えをするよう説得せよ。それでもいうことを聞かなければ、捕まえて連れてこい。放置することのないように」

いかがであろうか。天保の改革の十年前と比べて、規制が驚くほど甘くなっている。それはそうだろう。だって千四百人も女髪結がいるのだから。つまり幕府の禁令も美しい髪型をして町を練り歩きたいという女性の願いには敵(かな)わなかったのである。

なお、明治時代になると、女髪結はもっぱら芸妓たちの髪を扱うようになり、その稼ぎも男顔負けになっていく。妻の稼ぎで生きている夫のことを「髪結いの亭主」というが、じつはこれ、明治時代になってから成立した慣用句なのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史家
1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。

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(歴史家 河合 敦)

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