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新宿二丁目の"深夜食堂"ママがつぶやく「オレたちは底辺なんだ」の意味

プレジデントオンライン / 2020年5月27日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FilippoBacci

“ゲイの街”として知られる新宿二丁目に、深夜営業の食堂がある。そこで働く「りっちゃん」は、約50年にわたり街の移り変わりを見守ってきた。彼女の目に今の新宿二丁目はどう映るのか、ノンフィクションライターの長谷川晶一が話を聞いた——。

※本稿は、長谷川晶一『生と性が交錯する街 新宿二丁目』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■新宿二丁目の人々の胃袋を満たして約半世紀

「アンタ、オレの乳首、見てみる?」

自らのことを「オレ」と言いながら、グイグイと手元のビールを呑み干している。女性ではあるものの、「オレ」と口にしているが、りっちゃんはゲイでも、レズビアンでも、トランスジェンダーでもない。いわゆる異性愛者、ストレートである。

時刻は深夜3時を過ぎていた。店内には数名の客が黙々とドンブリをかき込んでいる。一方は酔ったサラリーマンのふたり組。もう一方はゲイと思しきカップルたち。視界の片隅でふたりが仲睦まじくじゃれ合っている様子が確認できる。

そして、厨房の奥ではりっちゃんの夫である「カジくん」がせわしなくフライパンを操っている。深夜から早朝にかけて、新宿二丁目の人々の胃袋を満たして約半世紀。

これが、りっちゃんとカジくんの日常である。

「24時間営業していた頃は、とっても忙しかったけど儲かったわよ。銀座の女の子たちも多かったね。銀座のクラブのコたちは店が終わると、六本木、赤坂に遊びに行く。そこが終わるとみんなで歌舞伎町に行って、そのあとにこの街にやって来て、みんなが新宿二丁目で1日を締める。あの頃はみんな元気だったから、どんなに忙しくても、疲れていても決して家に帰らない。だからオレたちも忙しかったけど、儲かったのよ(笑)」

まだまだ話は終わりそうにない。りっちゃんはますます饒舌になっていく。

長い夜となりそうだった──。

■常連客だった夫と純喫茶をオープン

本名を加地律子という。

1945年(昭和20年)に福岡県で生まれ、大分県との県境である豊前で育った。祖父は炭鉱の山師で、祖母は100人もの炭鉱夫を取りまとめる女傑だった。

「その血はオレにも流れているんだよ」

9歳年上の姉を頼って上京してきたのが1963年、りっちゃんが18歳のときのことだった。東京・神田で喫茶店を経営していた姉が出産休暇に入ったため、急遽、妹の律子がピンチヒッターとして働くこととなったのだった。神田駅前の一等地にあったこの店は、後のバブル期に売りに出され、億を超える額で売買され、現在では大きなビルが建っている。

無事に姉が出産した後も、りっちゃんは東京に残って店の手伝いを続けた。このとき彼女は、店に通っていた大学生にひと目ぼれして結婚を決意する。それが現在まで続く、夫・孝道との出会いだった。

「当時、大学生だったカジくんが毎日コーヒーを飲みに来ていたの。そこをオレがナンパして、そのまま結婚しちゃったのよ。いまはこんな見てくれになっちゃったけど、むかしはカッコよかったんだから(笑)。ねっ、カジくん!」

妻の言葉が聞こえているのか、いないのか。夫は黙ったまま、厨房の奥でせわしなく働いている。

数年の交際期間を経て、1968年にふたりは結婚する。そして、1970年11月に、夫とともに「クイン」をオープンした。当初は現在のような「食堂」ではなく、「純喫茶」としてのスタートだった。

■日中の営業から「リアル深夜食堂」へ

「開店当初は普通の喫茶店だったから、お客さんはサラリーマンが中心。朝はモーニングセットを食べて、昼はランチ、コーヒーを飲んでゆっくり過ごす。そんな感じよ。営業時間も朝8時から夜8時までだから、その日の売り上げを持って、『よし、みんなで飲みに行こう!』って店に繰り出す。楽しかったわよ、あの頃は」

バブル景気に沸いたその過程では「24時間営業」も行っていたという。

「お客が多かったから、一時期は24時間営業もやっていたけど、こんなに小さな店でも最低でもスタッフ3人は必要なのね。多いときには10人は雇っていたからね、これでも。オレだって一応、人間だから寝ないともたないし、あの頃は若かったから、麻雀やったり、サウナに行ったり、いろいろ外で悪いこともしたかったし……。

だから、スタッフたちのシフトを回さなくちゃいけないんだけど、いまみたいに携帯のない時代でしょ? 外出先から確認の電話すると、『○○ちゃんがまだ来ていません』ってことが日常茶飯事。あの瞬間は胃が痛くなったよね。でも、そんなにして一生懸命やったって、そんなに利益はないのよ。要するにお客さんも、オレがいなくちゃお酒も飲まずにコーヒー1杯で帰っちゃうから。それで24時間営業はやめて、深夜から朝までの営業にしたのよ」

まさに、リアル深夜食堂が誕生した瞬間だった。

■定食屋と喫茶店を合わせたメニューがずらり

深夜営業に特化したことで、客層ががらりと変わった。仕事中のサラリーマンは影を潜め、代わりに「クイン」の主役となっていったのが、新宿二丁目を拠点とするゲイやレズビアンたちだった。

「結局、この街で働く人たちがお客の中心になったのよね。新宿二丁目での仕事が終わってから、この辺ではちゃんと食べられる店がなかったから。やっぱり、みんな米が食べたいのよ。さんまの塩焼き、納豆、煮物、ヒジキが食べたくなるの。で、お客からの、『これが食べたい、あれが食べたい』って希望を聞いているうちに、これだけのメニューが増えて……。でも、おかげでみんなよろこんでくれるよ」

壁にかけられているホワイトボードには「本日の定食 オムレツ 500円」と書かれてあり、その横には「一品料理」が並んでいる。

ポテトサラダ 三〇〇
おひたし 三五〇
肉の生姜焼 五〇〇
煮物 四五〇
エビフライ 六〇〇
カキフライ 六〇〇
鶏のからあげ 六〇〇

……などなど、その日の仕入れに応じたメニューが全部で15個も手書きで書かれてある。さらに、机に置いてあるメニューを眺めてみる。

そこには、「ハンバーグ 400」「ピラフ 550」「ドライカレー 550」など喫茶店時代のメニューを彷彿させるものもあれば、「しそ昆布 150」「冷奴 200」「なめこおろし 350」など、定食屋ならではの小鉢メニューも数多く並んでいる。

まともに食事をとるのが難しい深夜帯で、これだけの手作りメニューが安価で食べられるのならば人気が出るのも当然のことだった。

この街の住人にとって、「クイン」が欠かせない店であることはすぐに理解できた。

■5軒飲みに行っていたのが3軒、2軒になり…

「クイン」をオープンしてからの50年間、新宿二丁目も大きく変貌を遂げた。この間、景気のいいときもあれば、どん底状態だったときもある。

りっちゃんのなかで思い出に残っている「楽しかったとき」は、1980年代後半から1990年代にかけてのバブル期だという。

「やっぱり、バブルよ。四の五の言う前に、あの頃は日本中がお祭り騒ぎだったからね。それは新宿二丁目も一緒。銀行屋さんも、ホームレスさんも、みんな不自由していなかったから。銀行屋さんはこちらが黙っていてもお金を持ってやってきたし、ホームレスさんだって、あの頃はコンビニが捨てる新品の弁当をいつも食べていたぐらいだから。いまの日本には、あの頃の元気はもうないよね」

当然、新宿二丁目からも「あの頃の元気」は失われた。りっちゃんは実感している。

「新宿二丁目も変わったよ。人だってずいぶん減ったし、外国人ばかりになったし。そもそもお客がかなり減ったからね。むかしは一晩に5軒飲みに行っていた人が3軒になって、3軒飲みに行っていた人が2軒になって、1軒になって。あるいは、たまに二丁目に来ていた人が全然来なくなって……。景気はよくないよね」

■かつては雅だった二丁目で変わらないもの

同時に、客の楽しみ方、店側の接し方も変わった。

「二丁目の店はかつては雅だったんだ。お客はただセックスをするだけじゃなかったから。ゲイバーでは会話のキャッチボールを楽しんで、それでお代を払って。でも、いまはただ(セックスを)やるか、やらないか。ヌくか、ヌかないか。ただそれだけだからね。店サイドの商売が下手になったと思うよ」

かつては雅の街だった──。りっちゃんの言葉は印象的だった。

「遊びに《雅》という言葉が正しいのかどうかはわからないけど、包み隠すというか、なんでもオープンにしない楽しさもあるでしょう? そういうものがなくなった。若いコたちは顔がいらないの、ただチンチンさえあればいい。それじゃあ、ちょっと味気ないというか、つまらないでしょ」

では、「クイン」はなにが変わったのか? あるいは、なにが変わらなかったのか? りっちゃんは少しだけ考えてから口を開いた。

「いろいろ変わったとはいえ、それでも新宿二丁目はいまでもゲイの街だし、こうして毎日仕事を終えたこの街の人たちがクインに食べに来てくれるのは、この50年間、なにも変わっていないよね……」

変わったものと、変わらないもの──。50年も経てば、それはどんな街にもある。新宿二丁目もまた例外ではない。それでも「クイン」は今日も営業を続けている。それは紛れもない事実なのだ。

■「人間が這いずり回って生きている街だから」

長きにわたったインタビューにおいて、りっちゃんがこんな言葉を口にした。

「この街は悪のたまり場。人間が這いずり回って生きている街だから……」

それまでずっとテンション高く、威勢のいい発言ばかりが続いていただけに、「人間が這いずり回って生きている街」という言葉は強く胸に刺さった。

その理由を問う。

「こういう言い方をすると自分がイヤになるけど、ずっとこの街で働いて、ずっとこの街で暮らしているとつくづく実感しますよ、私たちは底辺なんだって。だって、この街はガス抜きの場所なんだから……」

——どうして、自分のことを「底辺だ」と思うのですか?

りっちゃんの口調が強くなる。

「オレたちは神輿で言うと担ぎ手だから。決して神輿の上に乗ることはできないんだから。神輿に担がれている人たちが政治をやり、経済をやり、世の中のために頑張っているんだから。オレたちはそいつらの心を潤すための潤滑油でしかないんだから。もちろん、オレにも心の憂さはあるし、その憂さを吐き出す場所はあるよ。誰もが、自分なりの心の憂さを吐き捨てる場所があるんだからな。憂さを捨てる人もいれば、捨ててもらうために頑張る人もいる。そして、その人もまたどこかで憂さを捨てにいく。くるくる回る糸車……」

■この街で生きる人の「心の憂さ」を受け止める

ますます強気の発言は影をひそめる。りっちゃんは続ける。

「……たとえ将軍様でも、一般大衆でも、乞食でも、誰でも生きていればガス抜きが必要になる。それがこの新宿二丁目なんですよ。一生懸命働いて、一生懸命暮らして、人間は生きていく。そして、この街にそのガスを捨てに来る。ほら、『こころのうさの捨てどころ』って歌の文句にあったでしょう。あれこそ新宿二丁目なんだから。……知ってる? 若いから、知らないか?」

——世の中の人々の「心の憂さ」を受け止める覚悟を持って、半世紀にわたってこの仕事を続けてきたのですか?

質問に対して、りっちゃんは鼻で笑った。

「いやいや、そこまで高尚な考えはないよ。単に私自身が生きるがための飯のタネ。だから50年間もやってこられただけ。でもね……」

長谷川晶一『生と性が交錯する街 新宿二丁目』(KADOKAWA)
長谷川晶一『生と性が交錯する街 新宿二丁目』(KADOKAWA)

少しの間をおいて、りっちゃんは言う。

「……でもね、この街で生きているコたちが、お腹を空かせていたり、『今日の仕事は辛かった』って、誰かに愚痴をこぼしたいのなら、私でよければよろこんでそれを受け止めるつもりは持っているから。それはずっと変わっていないから」

それまで、「オレ」と話していたのに、気がつけばいつの間にか、「私」と人称が変わっていた。グラスを傾けるペースは相変わらず変わらない。

「これだけしゃべれば、もういいだろ。お腹減ったろ? おにぎりでも食べて行けよ。おーい、カジくん! なにかつくってやってよ!」

りっちゃんのテンションは相変わらず高い。空は白んでいる。新しい朝がやってきた。

50年目を迎えた「クイン」。その長い、長い1日がようやく終わろうとしている──。

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長谷川 晶一(はせがわ・しょういち)
ノンフィクションライター
1970年生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経て2003年、ノンフィクションライターに。『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『ギャルと「僕ら」の20年史 女子高生雑誌Cawaii!の誕生と終焉』(亜紀書房)など著書多数。

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(ノンフィクションライター 長谷川 晶一)

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