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SNSが「たくさんのバカ」を可視化してしまう3つの理由

プレジデントオンライン / 2020年8月19日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ViewApart

チャレンジ動画を撮影するために命を落としたり、家族を危険にさらしたりする人たちがいる。なぜ彼らはそうした「バカ」な行為をしてしまうのか。フランスのメディア学者フランソワ・ジョストは、「SNSが人をバカにしているのではなく、人がバカになる条件を整えている」と指摘する――。

※本稿はジャン=フランソワ・マルミオン編、田中裕子訳『「バカ」の研究』(亜紀書房)の一部を抜粋・編集したものです。

■人間が「バカになれる条件」をSNSが整える

SNSからすべてが始まったわけではない。SNSが過去との断絶をもたらしたわけでもない。それについては、近著『デジタル時代の行動における悪意(La Méchanceté en actes à l'ère numérique)』〔未邦訳〕ですでに明らかにしている。本書でわたしはSNSを、ドイツ人哲学者のカントにならって〈悪意の先験的条件〉と呼んでいる。つまり、「ネット上で悪意を表明するのを可能にする条件」こそがSNSなのだ。

〈悪意の先験的条件〉としてのSNSの特徴は、大きく3つに分けられる。ひとつ目は、著述家で映画作家のギー・ドゥボールが述べた〈スペクタクルの社会〉だ。ここではすべての経験が可視化される。つまり、人間の生活がスペクタクル化され、うわべだけになる。状況主義者であるドゥボールは、これを次のように定義した。

「スペクタクルとは、イメージの集まりではなく、イメージによって媒介される社会的な人間関係のことである」

この定義は、そっくりそのままフェイスブックに転用できる。フェイスブックでは、写真(イメージ)こそが、ユーザーの人格を作り、「友だち」との関係性を築く。フェイスブック社会ではあらゆる媒介の中心にあるのがイメージだ。ツイッターの場合も、いくつかの研究によると、投稿に写真を添付することでリツイートの数が大幅に増えるという。

ふたつ目の特徴は、何でも手当たり次第に他人を裁こうとする傾向だ。一九八〇年、ミシェル・フーコーはこのように述べている。

「なぜ人間はこんなにも他人を裁くのが好きなのか。おそらく、人類に与えられたもっとも簡単にできることのひとつだからだろう」

近年、動画投稿サイトやネットコミュニティサービスが多様化し、個人がコメントを書きこめる場が増えたため、この「裁き愛」にますます拍車がかかった。ユーザーはハンドルネームによって身分を隠すことができるため、リスクを負わずに過激な発言ができる。自分の悪口を言った者の正体を暴くために、IPアドレスの裏側に隠れた個人を特定しようとする人はそれほど多くないからだ。

■「悪意の先駆的条件3つ」がそのまま「バカの条件」に

個人主義や自己中心主義は決して目新しいものではないが(1980年代から1990年代にかけて、すでにテレビによって自己アピールの場が与えられている)、ネットは「世界は自分中心に回っている」と人々に思わせることで、こうした個人主義や自己中心主義をさらに肥大させた。フェイスブックの「ライブ動画配信」は、スマートフォンで自分のまわりの世界を撮影し、それをほかの人たちに見てもらうための機能だ。誰もがニュースメディアになりうるこの機能こそが、肥大した自己中心主義の新たな症状のひとつと言えるだろう。

ただし、誰もが世界の中心になりうるということは、全員が横並びだということでもある。そこでネットユーザーたちは、あらゆる手段を使って十把ひとからげから抜きんでて、自分だけが有名になろうとする。この「自らの存在意義のために有名になりたいという欲求」こそが、SNSの3つ目の特徴である。

(1)生活のスペクタクル化、(2)何でも裁きたがる傾向、(3)有名になりたいという欲求……こうしたSNSの3つの特徴は、〈悪意の先験的条件〉であるのと同様に、〈バカの先験的条件〉とも言えるかもしれない。なかなか興味深いテーマだ。わたしはこの3つの特徴をコンパスにして、中心ばかりが増えて外周がない、このSNSという奇妙なフィールドを歩いていきたいと思う。

■過激化する「チャレンジ動画」

動画を共有するYouTubeのようなサイトができたことで、誰もが自分の「チャンネル」を持てるようになった。そのチャンネルでは、自分が気に入っている既存の動画を集められるほかに、自らが作成した動画を公開することもできる。この機能のおかげで、生活のスペクタクル化がさらに加速した。とくに顕著なのは、「自分はこんなにすごいことができるぞ」と、他人にアピールする「チャレンジ動画」だ。

■事故が起きても文化として定着

始まりは、2014年にブームになった〈ネックノミネーション〉というゲームだ。アルコールをイッキ飲みするところを自撮りし、その動画をフェイスブックなどのプラットフォームを介して一般公開する。その際、誰か別の3人を指名して、二四時間以内に同じことをやるよう命じるのだ。アメリカ発祥の〈コールドウォーター・チャレンジ〉も同じ要領だ。このゲームの参加者は、冷たい水に飛びこむか、友人たちに食事をおごるか、どちらかを選ばなくてはならない。当然のことながら、多くの勇気ある者たちが池やプールに飛びこみ、一万九六〇〇本以上の動画がYoutubeにアップされた。

それに伴い、滑ったり転んだりといったアクシデントも数多く発生し、時に大事故を引き起こしている。フランスのブルターニュ地方では、片脚に自転車をくくりつけて水に飛びこんだ青年が溺れて命を失った。パ・ド・カレ地方では、頭蓋骨折と頸部損傷の重傷を負った者がいた。そうした悲劇が起きても、多くの参加者が、自らの配偶者やきょうだいを次の挑戦者に指名している。

■リアリティ番組とも共通する「傍観者のサディズム」

チャレンジ動画を撮影するために命を落としたり、家族を危険にさらしたりする行為は、おそらく「バカ」と呼んでよいだろう(それに対する反論はほとんどないように思われる)。こうした行為には、前述したSNSの三大特徴のひとつと、テレビのリアリティ番組にも共通するある特徴が見られる。

SNSの三大特徴のひとつとは、もちろん「生活のスペクタクル化」だ。チャレンジ動画の投稿者にとって、興味の中心は「チャレンジ」そのものではなく、他人に見られることだ。アイルランドの哲学者、ジョージ・バークリーの有名なことば、〈存在するとは知覚されることである〉は、デジタル時代に生きる人たちのための格言なのだ。

そしてもうひとつ、テレビのリアリティ番組に共通する特徴とは、「当事者と傍観者の完全なる分離」だ。当事者が苦しむ姿を傍観者はただ見ているだけだ。当事者が悲鳴やうめき声を上げるほど、傍観者は喜ぶ。こうした傍観者のサディズムについては、古代ローマ時代の哲学者、ルクレティウスが『事物の本性について』ですでにこう言及している。

「風が水面を大きく波だたせる広い海で、他人が厳しい試練を受けているさまを、地上で見ているのは快いものだ。他人が苦しむのが嬉しいのではない。あれほどの苦しみを自分が受けずに済んだことが快いのだ」

■リアリティなのか、イメージなのか

こうしてチャレンジ動画の「リアリティ」は、テレビの視聴者投稿ビデオと同レベルの「イメージ」となる。世界中でもっとも多く視聴されているチャレンジ動画のひとつに、若い女性が桟橋の上で滑って転んで向こうずねを打ったシーンがある。この動画の視聴回数は30万2164回で、そのうち「高く評価」を押したのは1万7000人だったのに対し、「低く評価」を押したのはわずか182人だった。

だが、撮影者が滑って転ぶ前に「女だって水に飛びこむ勇気くらい持ってるのよ!」と宣言したことに対し、377人のネットユーザーが悪意あるコメントを書いている。いったいどんなことが書かれているか、いくつかピックアップしてみよう。

Shesounet(1年前)
おまえの向こうずねは、おまえのバカさ加減に耐えられなくなって自殺したんだ
B14091990(3年前)
これぞまさに素晴らしき現代のフランス人女性! バカバカしい!
crystal(1年前)
女とは抱かれるものであって、転ぶものではない
MonsieurPoptart(3年前)
ヒステリックなデブバカ女
sjdhsjd23(3年前)
やっぱりフェミニストは抜け目ないわ
faydeurshaigu(1年前)
あたしはオンナだけどさ、水に飛びこむのなんて、あたしにしてみたらちっとも男っぽい行動じゃないんだけど。この人、このチャレンジのせいで自分の理論を台なしにしてるんじゃない(^_^;)
AWAMcube(1年前)
この人って、単に、ええとなんて言ったらいいか……バカだわ、すっごいバカ
Cyril Benoit(2年前)
結局、この女、カメラの前で自分をアピールしたかっただけだろう。モチベーションがくだらないから、くだらない結果を引き起こすんだな
Kevin Prudhomme(2年前)
転んでるし(爆)。超痛そう(^ ^)

こうして見るように(余計な説明は不要かもしれないが)、投稿者とその動画は、ネットユーザーたちから「バカ」と裁かれ、悪意や女性差別(あるいは両方)の対象とされ、嬉々として侮辱され、見下されている。他人の「スペクタクル」がバカバカしく見えるほど、傍観者は大きな喜びを感じる。そして、自らの嫌悪感(このケースでは女性やフェミニズムに対して)や悪意を表明したり、罵詈雑言を浴びせたりすることに快感を覚えるのだ。

■「有名になるためになんでもやる」心理

さて、これまでSNSの三大特徴のうち「生活のスペクタクル化」と「何でも裁きたがる傾向」を見てきたが、あとひとつ、「有名になりたいという欲求」が残っている。確かに、勇気を出して冷たい水に飛びこむという「スペクタクル」にも、「有名になりたいという欲求」は含まれるだろう。そもそも、SNSを始める理由そのものが、「有名になりたいという欲求」であるケースも少なくない。

ジャン=フランソワ・マルミオン編、田中裕子訳『「バカ」の研究』(亜紀書房)
ジャン=フランソワ・マルミオン編、田中裕子訳『「バカ」の研究』(亜紀書房)

「どうしたら不特定多数のネットユーザーたちから、自分だけが抜きんでることができるだろう?」。これは、有名になりたいすべての者たちが抱えている問題だ。そしてその多くが、人目を引く行為、つまり「スペクタクル」によって現状を打破しようとする。前述したように、チャレンジ動画を撮るために家族を危険にさらす者たちもいる。だがユーチューバーの中には、有名になりたいがためにさらに大きなリスクを負う者たちもいる。あるアメリカ人の若夫婦もそうだった。

「ペドロとわたしは、世界史上もっとも危険な動画をこれから撮るつもりです」。妻はそう宣言すると、胸元に分厚い百科事典を抱えた夫に向けて銃を撃った。百科事典が銃弾を受け止めてくれると思ったのだ。ところがその結果……妻は夫を殺害した罪で六カ月の懲役刑に処された。まさにエベレスト級のバカだ。だが、こうしたバカの山を登る者たちは今後もたくさん現れるだろう。

こうした〈バカの先験的条件〉としてのSNSの三大特徴は、この記事で紹介した以外の多くのケースにも当てはまる。そう考えると、SNSというフィールド内で生まれて形成された「バカ」について、これら3つの特徴は「バカの定義」と言いきることができるだろう。

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フランソワ・ジョスト パリ第3(新ソルボンヌ)大学名誉教授、メディア映像音響研究センター創設者・名誉会長。著書に『デジタル時代の行動における悪意(La Mechancete en actes a l'ere numerique)』(2018年)、『平凡崇拝(Le Culte du banal. De Duchamp a la telerealite)』(2007年)、『ロフト帝国(L’Empire du loft)』(2002年)などがある(いずれも未邦訳)。

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(フランソワ・ジョスト)

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