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なぜ中京地区だけは「NHKが3chで、フジテレビ系が1ch」なのか

プレジデントオンライン / 2020年9月3日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/aozora1

地上デジタル放送の開始以来、NHKは全国ほとんど1チャンネルとなったが、中京地区は3チャンネルがNHKで、1チャンネルはフジテレビ系の東海テレビになっている。これはなぜなのか。サイエンスライターの佐藤健太郎氏は、「周波数の割り当てという技術的な問題が背景にある」という——。

※本稿は、佐藤健太郎『番号は謎』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■毎日目にするのに謎の深い番号

筆者は関東地方で育ったので、テレビのチャンネルといえば1、3、4、6、8、10、12であった。しかし子供のころ、この不思議な並びがどういう理由でできたか、不思議でしかたがなかった。2や5を使わない理由は何なのか、なぜ3と4の間だけくっついているのか、周りのどの大人に聞いても誰も知らなかった。実は、今やたいてい何の疑問にでも答えてくれるグーグル検索に当たってみても、すっきりした解説には行き当たらない。

また、テレビチャンネルは地方によっても異なる。TBS系列を例に取ると、関東では6チャンネルだが、中京地区のCBCテレビは5チャンネル、近畿地区の毎日放送は4チャンネルだ。

地上デジタル放送の開始以来、NHKは全国ほとんど1チャンネルとなったが、中京地区は3チャンネルがNHKであり、1チャンネルはフジテレビ系の東海テレビが占めている。旅行先のホテルでテレビをつけてみたら、どうにも見たい番組が見つからず、リモコン片手に首をひねった経験のある方は多いだろう。

なぜチャンネル番号はかくもややこしいのか。これを探っていくと、テレビ放送の技術的な問題と、複雑怪奇なテレビ局の歴史に行き当たる。

■電波は限りある資源

放送というのは、要するに映像や音などのデータを電波の形に変えて、遠くまで送り届けることだ。何しろ電波というのは、ケーブルなどの設備を必要とせず、光のスピードで遥か遠距離まで届くから、通信にこれほど便利なものはない。

電波は、周波数によってそれぞれ届く距離や運べるデータ量が異なる。このため、携帯電話やAM・FMラジオ、アマチュア無線など、用途によってそれぞれ適した周波数の電波が用いられている。また、みなが好き勝手に電波を飛ばすと混信してまともな通信ができなくなるから、国際規約や電波法などによって、使用可能な波長は厳密に取り決められている。要するに、電波というものは土地などと同じように限りある資源であるから、取り決めの下でうまく分け合って使いましょうということになっているのである。

たとえばラジオの中波放送(いわゆるAMラジオ)には、日本では531キロヘルツ~1602キロヘルツの周波数を持った電波が用いられている。かつてはこれを10キロヘルツずつ刻んで各放送局に割り当てていたが、1978年以降は国際規約の変更により、これが9キロヘルツごとになった。このため日本のAMラジオ局の周波数は、TBSラジオが954キロヘルツ、文化放送が1134キロヘルツ、ニッポン放送が1242キロヘルツといったように、みな9で割り切れる数字になっている。中途半端な数字には、こういう意味があったのだ。

■1953年は日本にとって「テレビ元年」だった

というわけで、本題であるテレビの歴史を追ってみよう。他に先駆けてテレビ放送を研究していたのはやはりNHKで、1953年の放送開始を目指していた。しかしその独走に待ったをかけたのが、読売新聞社社主の正力松太郎であった。読売新聞は1951年元旦の社告でテレビ放送の開始をぶち上げ、資金調達に乗り出す。

両者は競い合いながら、1952年に放送予備免許を獲得する。翌1953年2月にはNHK、8月には日本テレビも本放送を開始し、日本にとって記念すべきテレビ元年となった。この翌年には力道山が登場してプロレスブームが巻き起こり、一挙にテレビ時代が加速していく。

さて、チャンネルの割り当てはどう進められたのだろうか。当初、超短波(VHF)のテレビ放送に割り当てられた電波は、合計6チャンネル分であった。だが、このころ1チャンネル(90~96メガヘルツ)と2チャンネル(96~102メガヘルツ)は在日米軍が使用していたため、利用可能なのは3~6チャンネルのみという状況であった。

■混信を避けるためチャンネルの間をあけた

関東・中京・近畿の三地区で、テレビ放送を開始することは決まっていた。そこにこの貴重な枠を、どう割り振るか。考えねばならないのは、混信の問題だ。3チャンネル(102~108メガヘルツ)と4チャンネル(170~176メガヘルツ)の間だけは周波数が離れているので問題ないが、同地区で5チャンネル(176~182メガヘルツ)と6チャンネル(182~188メガヘルツ)のように周波数が近い局が並立していると、混信が起きて映像や音の乱れが発生する。また、たとえば関東と中京で、同じチャンネル番号の局が違う内容の番組を流すと、両者の境界地域ではやはり混信が起こりうる。

こうしたさまざまな条件を勘案し、関東地区には3・4・6チャンネル、中京地区には3・5チャンネル、近畿地区には4・6チャンネルが割り当てられることに決まった。NHKは関東・中京で3チャンネル、近畿で4チャンネルを割り当てられるが、後に米軍から1・2チャンネルの電波帯が返還された際、関東は1チャンネルへ、近畿は2チャンネルへ移動した。東海地区では1チャンネルに民放の東海テレビが入ったため、NHKは3チャンネルのまま今に至っている。

■1957年には多くの企業による放送免許争奪戦が起こった

こうしてテレビブームが拡大すると、他社も黙ってはいられない。何しろ、テレビは大量の映像データを送らねばならないから、ラジオよりも遥かに広い周波数帯域を必要とする。となれば、設置できるテレビ局の数はそう多くはなく、出遅れれば永遠にテレビ局を持てなくなってしまう。新聞などマスコミ各社はもちろん、出版社、映画会社、宗教団体などなど、多くの企業や団体が放送局開設に動き出したのだ。

1957年には、関東地区に3局、近畿地方に2局、中京地区に1局、その他各地方で1局ずつのテレビ局開設を認める「第一次チャンネルプラン」が発表された。放送免許を求めて殺到した多くの企業をその豪腕で捌いたのが、かの田中角栄であった。39歳の若き郵政大臣は、申請者27社の代表を集めた懇談会で、自身のまとめた調停案を元に申請者同士の合同を勧告した。競合各社は、どう見ても「懇談」や「勧告」ではなく、「申し渡し」でしかなかったその案に従う他なく、いがみ合ってきた経緯を捨てて合同に向かう。文化放送・ニッポン放送・松竹・大映・東宝などは共同で「富士テレビジョン」(現フジテレビ)を設立し、東映・日経新聞・旺文社などは、難航の末に「日本教育テレビ」(NET、現テレビ朝日)を立ち上げる。

すでに放送を開始していた日本テレビの「4」、TBSテレビの「6」に続き、富士テレビジョンには「8」、NETには「10」のチャンネル番号が与えられた。奇数が使われないのは、前述した通り混信を防ぐためだ。その他、中京・近畿他の各地にもテレビ局が開局し、テレビ界は花盛りの様相を呈し始める。

■地域ごとにチャンネル番号が異なっている背景

また1968年からは、極超短波(UHF)を用いたテレビ局も登場した。UHFはチャンネル数が多くとれるものの、遠距離へは電波が届きにくいため、地方の独立局に多く用いられた。チャンネル番号は、13~62チャンネルが充てられている。

ただし地方局の収益力は低く、番組制作能力も限られていた。勢い、これら地方局は東京や大阪のキー局と提携し、番組を供給してもらうようになる。こうしてテレビ局のネットワーク化が進むが、親会社との関係などで何度も移籍が起こっており、その歴史は複雑怪奇だ。こうしてわかりやすい付番などは望むべくもなくなり、地域ごとに全く異なるチャンネル番号という面倒な状況が生まれてしまったのだ。

地上デジタル放送開始前の、東名阪三地区のチャンネル番号を図表1に示す。同一地区内では番号が隣接しないよう(3・4チャンネルを除く)、また隣接地区ではなるべく同じ番号が用いられないよう設定されているのがおわかりいただけるだろう。

地上デジタル放送開始前の、東名阪三地区のチャンネル番号

■地デジ化でチャンネル番号に変化が

こうして複雑なままに固定化されてしまったチャンネル番号だが、21世紀に入って大きな変革が訪れる。地上デジタル放送の開始がそれだ。前述のように、VHFの電波帯には混信を避けるために空きチャンネルが多く設けられており、極めて非効率だ。デジタル放送の技術を用いれば混信の心配はなく、チャンネルの間を詰めることができるため、貴重な電波を有効活用することができる。

地デジ放送開始後のチャンネルは、以下のように整理された。NHK教育テレビ(Eテレ)は2チャンネルで統一されたが、NHK総合は中京地区や北海道・富山・福岡などで3チャンネルのまま残された。関東の民放では日本テレビ・TBS・フジテレビは変わらず、テレビ朝日が10→5、テレビ東京が12→7へと番号が若返った。関東の3、中京の7~9、近畿の3、5、9などの番号は、地域の独立放送局が使用している。

中京テレビが35→4、テレビ大阪が19→7などとして、系列の親局に合わせたところもあったが、番号を変更しないままのところも多かった。他局との調整の難しさもあっただろうが、やはり長年慣れ親しんだ番号を変えたくなかったのだろう。チャンネル番号の数字を局のロゴマークにしているところなども多く、イメージ刷新はそう簡単ではない。

地デジ放送開始後のチャンネル

■地デジ化以降、フジテレビが重大な不振に陥る

だが地デジ化以降、各局の明暗ははっきり分かれた。日本テレビは変わらず好調だが、テレビ朝日も2012年にプライムタイム視聴率1位に輝くなど、躍進を見せている。一方、1980~90年代にかけて視聴率トップを独走したフジテレビは重大な不振に陥っており、今やテレビ東京に迫られるまでになった。

佐藤健太郎『番号は謎』(新潮新書)
佐藤健太郎『番号は謎』(新潮新書)

フジテレビの不調については多くの分析がなされ、体質の変化や社屋移転などが原因として挙げられている。しかし、チャンネル番号が関東キー局中で最後尾になったから、という一見単純な指摘にも、なかなか見逃せぬものがあると思える。

地デジ化以前、フジテレビの番号は関東の主要7局中5番目にあり、新聞などの番組表でも中央やや右寄りの目につきやすい位置にあった。しかし地デジ化によってフジテレビは番組表の右端に追いやられ、目に入りにくくなってしまった。チャンネルを1から順に切り替えて面白そうな番組を探す際にも、8チャンネルにたどり着く前に手前でストップしてしまうことが多くなる。自分のテレビ視聴習慣を省みると、これは確かに影響がありそうだと思えてくる。

■数字ひとつで命運が左右されることも

実際、フジテレビの凋落は、地デジ化がほぼ完了した2011年から顕著になっており、番号の若返ったテレビ朝日の躍進はこれと同時期だ。これらを考え合わせれば、チャンネル番号変更は少なくとも、視聴率変動の要因のひとつにはなっていると思える。もしフジテレビが、空いていた3チャンネルに乗り換えていれば事態は違っていたかもしれないが、これは後知恵というものだろう。

チャンネル番号などに左右されない、圧倒的に面白い番組を作ればよいだけだ──といってしまえば、もちろんそれまでではある。しかし、たかが数字の大小ひとつで巨大企業の命運が左右されてしまうというのが、番号の持つ怖さであるには違いない。

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佐藤 健太郎(さとう・けんたろう)
サイエンスライター
1970年、兵庫県生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。医薬品メーカーの研究職等を経て、2020年8月現在はサイエンスライター。2010年、『医薬品クライシス』(新潮新書)で科学ジャーナリスト賞受賞。著書に『炭素文明論』(新潮選書)『世界史を変えた新素材』(新潮選書)など。

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(サイエンスライター 佐藤 健太郎)

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