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総裁選不出馬「俺が反対したら、支持率は下がる」"誰も意見を言わない自民党"を作ったある人物

プレジデントオンライン / 2021年9月22日 9時15分

自民党の二階俊博幹事長との面会のため同本部に入る石破茂元幹事長=2021年9月14日、東京・永田町 - 写真=時事通信フォト

安倍長期政権のもとで自民党には何が起きていたのか。朝日新聞取材班は「かつての自民党には執行部批判を繰り広げる一言居士がそろっていた。だが今は『沈黙する自民党』になっている」という――。

※本稿は、朝日新聞取材班『自壊する官邸』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■「石破アレルギー」を味方につけた第2次安倍政権

「安倍1強」はいかに生まれたか。

最大のライバルだった元幹事長・石破茂との関係を軸に振り返る。

2012年末に生まれた第2次安倍政権の誕生には、民主党政権の低迷だけでなく、自民党内にあった「石破アレルギー」が一役買った。

自民党の次期衆院選での政権復帰が確実視される中で行われた同年9月の党総裁選。石破は1回目の投票で、地方票の過半数を奪って安倍らを圧倒したが、国会議員票が伸びず、田中角栄が福田赳夫を破った1972年総裁選以来の決選投票となる。

石破は自民党が下野し、細川(護熙)連立政権だった1993年12月に離党したこともあり、当時自民党幹事長だった元首相・森喜朗ら党重鎮の間では「苦しい時に、石破から後ろ脚で砂をかけられた」との思いから「石破嫌い」が根強かった。安倍は、「石破政権」の誕生を嫌う国会議員たちの票を集めて決選投票で逆転し、病気で首相を退いた07年9月以来の総裁に返り咲いた。

衆院選を控えた安倍は不本意ながらも、石破を幹事長に据え、「二枚看板」態勢を敷いた。必ずしも気が合わない石破を、党員人気を考えて「選挙の顔」として使わざるを得なかった。

安倍、石破のトップ2が載ったポスターで戦った自民党は12年末に政権を奪還した。総裁選で安倍を推した菅義偉、麻生太郎、高村正彦らで政権中枢を固める一方、石破を幹事長に留任させた。そして13年夏の参院選で安倍自民党は大勝。衆参のねじれを解消させた。

■「俺が安倍さんに反対したら、支持率は一気に下がる」

幹事長として参院選勝利に導いた石破は、この時も留任する。この間、石破は安倍の政権運営に表立って異論を唱えることはなかった。

石破が沈黙したのは、麻生政権での苦い記憶があったからだ。支持率が下がり、政権転落がささやかれる中、「麻生降ろし」が表面化。農水相だった石破も麻生に退陣を求めた。こうした党内抗争が政権転落につながったと総括された。

石破は周囲に「俺が安倍さんに反対して党がガタガタしたら、支持率は一気に下がる」と強調。沈黙こそが正しさと考えた石破は安倍を党側から支えた。

ただ、12年衆院選、13年参院選で大勝し、「自民1強」を固めた安倍からみれば「選挙の顔」としての石破はもはや不要だった。自らが「選挙の顔」との思いもあったかもしれない。

安倍は圧倒的な権限を持つ幹事長から石破を外すタイミングをはかっていた。転機は14年9月の党役員人事・内閣改造だった。石破はラジオで幹事長続投を訴えたが、安倍は拒否し、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制の担当相を打診した。石破は「安保観が違う」と打診を拒否し、新設された地方創生相に就いた。幹事長から一閣僚への「降格」だったが、石破は閣内にいることを理由に、政権への異論を自制。「沈黙」で政権を支え続ける。

14年12月の衆院選でも大勝した安倍は、15年9月の総裁選を迎える。閣内にいた石破は立候補せず、意欲を示した野田聖子は推薦人を切り崩され、安倍は無投票で総裁選に再選された。無投票こそ、最大の沈黙だった。その後、石破が嘆き、自ら苦しむことになる「沈黙する自民党」は、石破自身が生み出し、固めていったものだった。

■石破茂が閣外に去り、「安倍1強」は完成した

安倍の無投票再選が決まった後も、石破は閣内に残る。次期総裁選に向けてフリーハンドを得るために閣外に去るべきだとの側近の意見もあったが、石破は総主流派体制の下での「孤立」を恐れ、閣内残留を選んだ。ただ、次を見据えて、「政権をめざしたい」と石破派を立ち上げた。

一方、党内基盤を固めた安倍は、悲願の憲法改正に向けて照準を16年7月の参院選に合わせ、自民はまたも大勝した。

自民、公明に加えて、安倍政権下での改憲に前向きなおおさか維新の会や無所属議員を加えた「改憲勢力」で、改憲に必要な3分の2を確保した。さらに、自民は平成最初の参院選だった1989年に失った単独過半数を、平成最後の16年参院選を経て、27年ぶりに回復した。国政選挙4連勝で「選挙の顔」としての安倍の評価はさらに高まった。

安倍が絶頂期を迎える中、石破は16年8月の内閣改造で閣外に出て「無役」となる。幹事長、閣僚として支えた安倍政権から、石破が去ることで「安倍1強」は完成した。

■「モリカケ問題」で見え始めたかげり

政敵を外に追いやった安倍は、自転車事故でケガをした谷垣禎一に代わり、二階俊博を幹事長にした。「百戦錬磨、自民党で最も政治的技術をもった方」と持ち上げ、二階は呼応するように、自民党総裁3選に向けて党則改正にいち早く言及し、「任期がまだまだある、というゆとりがあってもいいんじゃないか」と議論をリードした。

権限行使に慎重だった谷垣から、躊躇なく権力をふるう二階に幹事長が代わり、安倍の1強体制はさらに強固になった。17年3月には総裁連続3選を可能にするよう党則が改正された。安倍は同年5月、悲願の憲法改正に向けて、9条に自衛隊を明記する案を提案。党内からは支持の声が相次いだ。

しかし、その勢いにかげりが見え始める。「満月」はいつまでも続くわけではない。

夜の国会議事堂
写真=iStock.com/Taku_S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Taku_S

1強が完成した直後に「強すぎる首相官邸」の弊害が次々と噴出する。17年2月には、森友学園への国有地売却をめぐる問題が表面化。安倍は国会で「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」とたんかを切った。

同年5月には、「腹心の友」と評する自らの友人が理事長を務める加計学園の獣医学部新設も政治問題化した。安倍は「私が友人である加計さんのために便宜をはかったという前提で恣意的な議論だ」と全面否定。官房長官だった菅義偉は「総理のご意向」と書かれた文書を「怪文書のようなもの」と言い放った。

■支持率が下がっても、しばらくすると戻る

こうした出来事は「選挙の安倍」の看板を傷つけた。17年7月の東京都議選では、都知事の小池百合子率いる都民ファーストの会の躍進で、自民党は歴史的惨敗を喫した。安倍が「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と発言したことも批判を浴び、支持率は急落した。

ただ、選挙で落ちた支持率を再び上昇させたのも選挙だった。安倍は北朝鮮からのミサイルが発射される中、衆院を解散した。小池による野党再編の失敗劇も重なり、自民は再び圧勝。支持率とともに党内でも「選挙の顔」としての神通力を取り戻した。

しかし、その後も、長期政権のうみは次々に噴出し、森友学園をめぐる公文書改ざんの問題も発生した。石破は安倍の対応を批判したが、自民党はかつての活力を失っていた。

小泉進次郎が「平成の政治史に残る大きな事件」と政権に批判的な発言をしたり、元行革相の村上誠一郎が党総務会で声を上げたりしたが、それ以上の追随はなく、石破に同調する声は広がらなかった。問題が発生するたびに、支持率が下がるものの、しばらくするとまた戻っていった。

■かつての自民党には一言居士がそろっていた

石破は2016年秋、旧中曽根派の先輩議員だった元農林水産相・島村宜伸とパーティーで再会する。島村は「あの時言った通りになったろ」と言った。あの時とは、衆院に小選挙区制を導入するかをめぐる党内対立が激しかった1990年代のこと。島村は反対派の急先鋒で、「党に権力が集中して、みんな言うことを聞くやつばかりになるぞ。物言わぬ政党になり、つまらない議員が増える」と予言していた。

当時、小選挙区制導入の旗を振った石破だが、「誠に申し訳ございません。こうなるとは思いませんでした」と島村に頭を下げるほかなかった。

島村は小泉内閣で郵政解散の署名を拒否して農水相を罷免された。かつての自民党には、島村のほかにも梶山静六、粕谷茂、亀井静香、河野洋平が橋本政権の総務会で執行部批判を繰り広げ、一言居士がそろっていた。

■沈黙は「手段」から「目的」に変わった

安倍絶頂期の総務会で異論を唱えるのは、石破のほかに元行革相の村上誠一郎や参院議員・木村義雄が目立つ程度だ。集団的自衛権を議論していた14年夏ごろまでは「おっしゃる通りだ」と村上の事務所をこっそり訪ねる議員もいたが、その後、いなくなった。村上は「後ろを向いたら誰もついてきていない」と嘆いた。

朝日新聞取材班『自壊する官邸』(朝日新書)
朝日新聞取材班『自壊する官邸』(朝日新書)

むしろ政権復帰した12年の衆院選以降に初当選した若手は「沈黙する自民党」しか知らない。15年秋の党総裁選に意欲を示した野田聖子の推薦人になろうとした議員が切り崩され、安倍の「無投票再選」に終わった。ある若手は「先輩が黙るなら、私たちはなおさら。何か言ったら自分がおしまい」と語った。

沈黙は、野党転落の教訓や党内対立で自滅した民主党を反面教師にした政権維持の「手段」だったが、1強のもとで「目的」に変わった。当時、党内状況に危機感を募らせていた衆院議員・小泉進次郎は、初当選後に野党になった経験から、こう警鐘を鳴らしていた。

「上が決めたことを何も考えずに受け入れる空気が漂っている。なし崩し的に物事が進むことに不感症になったら、党はぶっ壊れる」

しかし、その小泉も、安倍内閣に入閣した後は、批判を封印した。

(朝日新聞取材班)

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