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「いまの常識は100年前の非常識」イタリア人移民が世界有数の銀行を作るために始めたこと

プレジデントオンライン / 2021年10月5日 9時15分

2018年5月11日、米銀行大手バンク・オブ・アメリカの看板を掲げたビル(アメリカ・ニューヨーク) - 写真=AFP/時事通信フォト

世界有数の銀行バンク・オブ・アメリカ(バンカメ)は、どうやって始まったのか。スクエアの共同設立者ジム・マッケルビー氏は「1世紀前まで、アメリカの銀行は富裕層のためのものだった。バンク・オブ・アメリカの前身であるバンク・オブ・イタリーは、その常識を打ち破ることで、現代の銀行モデルの基礎を築いた」という――。

※本稿は、ジム・マッケルビー『INNOVATION STACK だれにも真似できないビジネスを創る』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。

■歴史上で最もすごい銀行家

イノベーションスタックの時代を超えた威力を示すため、ある銀行の話をしよう。そんじょそこらの銀行じゃない。あまりに強力なイノベーションスタックを創り出したので、世界最大の銀行になってしまったところだ。そうする過程で、この銀行は金融の世界を何億人にも開放し、アメリカ西部の大半を造り上げた。実は人々が今や銀行の常識だと思っているもの――支店、貯蓄、小切手、少額融資など――はもともと、1世紀前のイノベーションスタックの一部だったのだ。が、どう頑張ったところで、銀行の話なんて退屈なものに決まってる。

むしろ、あるスーパーヒーローの話をしよう。旅と冒険の物語。邪悪なギャング、殺人、スパイ、もちろん大都市の破壊もある。死と大混乱、もちろんあります! ヒーローはハンサムで茶色い目をした巨漢で、声高だし、ときにはマントさえ着た。これは1800年代の人々は何ら恥じることなく、タイツ姿にならなくてもできたことだ。この物語はあまりに壮絶なので、本書の最初の草稿は劇画だったほどだ1。残念ながら、電子書籍リーダーやオーディオブックでは、ニュース記事のインクの物語をきちんと再現しきれないので、こうした文字に戻す羽目になった。が、形式はどうあれ、歴史上で最もすごい銀行家に会っていただこう。

■15歳で義父の商品取引会社へ入社

1869年に、22歳のルイジ・ジャンニーニとその14歳の妻ヴァージニアは、新しい大陸横断鉄道でアメリカを横切ってカリフォルニア州サンノゼに到着した。二人の赤ん坊、アマデオ・ピエトロ(A・P)は1870年に生まれた。頑張る若い夫婦はホテルを経営し、やがて十分貯金をして、肥沃なサンタクララ峡谷に40エーカーの農場を買った。

ルイジはよい農夫で、ヴァージニアはよい経営者だった。農場は繁栄し、家族は増え、弟ができてもう一人も腹の中だった。でもある午後に畑から戻るとき、A・Pと父親の前に、怒った雇い人が立ちはだかった。6歳の息子の目の前で、ルイジは1ドルをめぐる争いで射殺された。若きスーパーヒーローは、金銭問題がいかに悲劇的になるかを、最悪の形で学んだわけだ。

今や21歳の彼の母親は農場を経営して息子3人を育てたが、やがて商品取引人ロレンゾ・スカテナと結婚した。商品取引は冷凍が発明されるまでスリリングな商売で、若きA・Pは夢中になった。15歳にして彼は義父の会社に入った。

A・Pの仕事ぶりは伝説的だった。夜明け前に起きて、他の人たちが遠すぎると考えた畑まで足を運び、そうした農夫が作物を市場に出すのを手伝った。ある日、A・Pは競合が自分を出し抜いて、川向こうの農場に向かっているのを見た。橋まで遠回りしたら競合が先に着いてしまう。そこでA・Pは馬をつなぎ、服を頭上にのせたまま川を泳いで渡った。乾いたままの競合が到着した頃には、A・Pと農夫はすでに契約をかわしていた。

■銀行を使わない人たちのための銀行を作る

川を泳いで渡るなんてイカレてるって? ぼくは2回、会議に遅れまいとして満席のフライトにしのびこんだことがある2。また運輸エンジニア学会との契約のためにストリップをして入り込んだこともある3。どちらの行動も正当化するつもりはない。単に、アーモンドか何かを買いに裸の男が川を泳ぎ渡るというのは、ぼくには十分に筋が通って思えるのだというのを指摘したいだけだ。

A・Pはぼくが昔から求めていたお兄さんだった。

スカテナ&サンズ社は西部最大の商品取引会社となった。31歳までにA・Pは一生遊んで暮らせるだけのお金が手に入ったので、引退してある銀行の経営理事になった。

だが1901年の銀行というのは今日の銀行とはちがう。銀行は中小事業者を無視し、必死の人々を高利貸しに追いやったり、完全に倒産させたりしていた。

A・Pは他の理事たちを説得してやり方を変えさせようとしたが、失敗した。頭にきて彼は理事会を辞めると、町の反対側にある友人が働く銀行まで走って行った。「銀行を使わない人たちのための銀行を作るぞ。ジャコモ、どうすればいいか教えてくれ」。A・Pはそれをバンク・オブ・イタリーと名付けた。

A・P・ジャンニーニの話を初めて聞いたとき4、正しい星を見つけたのはすぐにわかった。ぼくたちは選んだ都市まで同じだった。このガラス吹き職人とマッサージセラピスト5がクレジットカード処理機を立ち上げる150年前に、ここにいたのが銀行を立ち上げる商品取引人だ。ぼくたちの動機もほぼ同じだ。もっと多くの人を含めて、不公平な仕組みを正しいものにしたかった。もう一つの類似点は、自分が何をやっているかまったくわかっていなかったということだ。

仕組みから排除された人々のために正しいものにしようというぼくたちそれぞれの決断は、他のクレジットカード処理業者や銀行と袂を分かった瞬間だった。A・P的に言えば「小者」6に奉仕できる仕組みを作ろうとすることで、二人ともイノベーションスタックを創ることにしていたわけだ。比喩的には、ぼくたち三人とも城壁都市を後にした。でもA・Pは、文字通り燃えさかる都市に駆け戻ることになる。

■大震災により、サンフランシスコ市の30カ所で火事が発生

1906年4月18日の午前5時12分に、運命の手がA・Pとその家族全員をベッドから投げ出した。サンフランシスコ大地震はカナダでも体感できるほどの強さだが、サンマテオのA・Pの家は無事だった。家族の安全を確認して、彼はすぐに着替えると、サンフランシスコに乗り込んで自分の危ういバンク・オブ・イタリーを確認しに行った。

当初、町は生き延びたように見えた。一部の建物は地震で倒れたけれど、大半の構造物は木造で、木造構造はレンガより耐震性がある。もちろん、木には確かに別の欠点があるのだけれど。

うちの居間には、乾燥した木の束が、穴の開いたガス管と火の元の上にぶら下がっている。ぼくたちはこうした物体の集まりを「自動点火式暖炉」と呼ぶ。1906年にはそれが「サンフランシスコ市」と呼ばれていた。地下を走る脆いガス管は地震で壊れ、爆発性ガスのプリュームを木造建物の照明に使うランプのほうに送り出していた。町全体で、30カ所の火事が同時にあちこちで発生した。残酷な冗談として、ガス管を壊したのと同じ力が水道管も壊しており、住民による消火はまったく絶望的だった。サンフランシスコは炎上する。あとは時間の問題だった。

■黄金を27キロ離れたA・P宅へ運搬

A・Pが到着したのは家を出てから5時間後の正午で、バンク・オブ・イタリーは開店していて無傷だった。町までの道中でいくつか火事は見ていて、それがどんどん町に入り込みつつあるのもわかっていた。でも分断されたのはガス管と水道管だけではなかった。町を支える文明機能の細い糸もへし折れていた。警察と消防隊は燃える都市への対応で手一杯だったので、炎より急速に無法状態が広がっていた。火事場泥棒の集団が暴れまわり、ちっぽけなバンク・オブ・イタリーには耐火金庫がなく、単に鍵のかかる箱とリボルバー拳銃が一丁だけだった。

A・Pは社員をスカテナ&サンズ社に遣わせて、商品馬車を2台調達した。銀行の黄金や記録をその馬車に載せ、お宝を野菜の下に隠して火事場泥棒たちにわからないようにした。日暮れまで待ってから、夜陰に乗じて馬を27キロ離れたA・P宅まで御していった。そして黄金を一家の暖炉の灰入れに隠しておいた。

やっとここに、起業家が親しみを感じられる人物が登場した。ぼくは火事場泥棒や燃えさかる都市に直面したことはないけれど、ご禁制CD-ROM4万枚をピケ線と検問を越えて巨大トラックで運んだことはある。このトラックはあまりに地上から高くジャッキアップされていて、本当にとんでもない様子だったので、やつらは後部ドアから中をのぞく気にならなかったのだ。でもわがメンターの物語は孤高の存在だ。後の「当行のお金は何週間もオレンジジュースのような匂いがした」というA・Pのコメントに到るまで。

■ほかの銀行が閉店する中、都市再建のためお金を貸し始めた

地震の2日後、まだ煙が町の上をたなびいている中、サンフランシスコのあらゆる銀行の指導者たちが集まって、行動方針を選んだ。正確には、行動しない方針を選んだ――6カ月にわたり閉店することを決めたのだ。A・Pは激怒した。今こそ人々が、都市再建のためにお金や融資を必要としているのだ。他の銀行が恐怖に身をすくめている間に、A・Pとバンク・オブ・イタリーは、黄金入りの袋と帳簿を持って埠頭(ふとう)にでかけた。そしてサンフランシスコを再建したい人にならだれにでもお金を貸し始めた。

都市の眺めと金融のイメージ
写真=iStock.com/number1411
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/number1411

バンク・オブ・イタリーが構築したイノベーションスタックは、1世紀後にぼくたちがスクエアで創り出したものと不気味なほど似ている。ぼくたちは、システムを使いやすくして、だれにでも手が出せるものにするためにイノベーションを創り出した。急成長と口コミ広告を後押しするような新しい仕組みもあった。新しいリスクや保険の仕組みもあった。ルールの一部を変えるために、規制当局と戦って懇願しなければならなかった。何か見覚えがないか見てほしい。

■バンク・オブ・イタリーのイノベーションスタック

1.「小者」に注目

A・Pは「我々の目的は、小口預金者と借り手の利益に専念する。我々は、どんなに少額だろうと貯金を定期的に預金してくれる賃金労働者や中小企業者を、当行にとって最も価値ある顧客と考える」7。でも多くの「中小ビジネスマン」はマン(男)ではなかったので、どうしても必要だったのが……。

2.女性のための銀行

アメリカ合衆国憲法修正第19条が女性に参政権を与えてから、バンク・オブ・イタリーは全国初の女性向け銀行、女性銀行部門を開設した。これはサンフランシスコのパウウェル街にある、ジャンニーニの新しい銀行ビルの2階にあった。アメリカで初めて、女性は自前の口座にアクセスできて、夫に口出しされずに自分の財務を管理できるようになった。でもこうした新しい男女の顧客はきわめてケチだったから、どうしても必要になったのが……。

3.低金利

後にスクエアがやるのと同様に、バンク・オブ・イタリーは手数料を同輩たちよりはるか下に設定した。競合銀行は金利12%だったのに、バンク・オブ・イタリーは7%だった。これは融資残高の激増を招くと同時に、預金者集めも必要となった。またこれは、もっと慎ましく責任ある顧客を集めることになった。A・P曰く、「10%だの12%だのを課したら借り手を倒産させることになる。低金利のために戦う人物こそ、当行がお金を貸したい人物だ」8。でも低金利だと量を稼ぐ必要があるので、どうしても必要となるのが……。

■銀行で唯一、広告を打った

4.直販部隊

バンク・オブ・イタリーは、営業マンを戸別訪問させ、あらゆる結婚式、教会ピクニック、洗礼式、ご近所の社交イベントに送りこんだ。当時の銀行は積極的にサービスを売り込んだりはしなかったけれど、やるべきだったのかもしれない。というのもこれは大成功したからだ。直販部隊の威力は、後年になってバンク・オブ・イタリーが別の銀行を吸収したときに最もはっきりあらわれた。口座の数が1年で倍増したのだ。

でも営業マンは、人々がこちらの商品について聞いたことがあるほうが成果を挙げられるので、どうしても必要になったのが……。

5.広告

当時他に広告を打つ銀行はなかったけれど、バンク・オブ・イタリーはその初年度から人々に訴えかけていた。ある広告はこんな具合だ。

1ドル――大したお金ではありません――でも預金する価値はあります。1ドルから預金口座が開けて、それが貴方の財産の始まりになるかも。この瞬間に1ドルお持ちなら、考えなしに使ってもよいのですが、当行においでいただいて預金してはいかが? 他に預金できる資金とあわせて利子を稼いでくれます。

小口預金者に広告しても、手持ちの少額資金で口座を開けなければ意味がないので、どうしても必要になったのは……。

■ときには握手だけで口座を開設

6.口座最低入金額の引き下げ

ほとんどの他の銀行は口座開設に1ドルよりかなり多くのお金が必要だった。バンク・オブ・イタリーは、だれでも口座を開きやすくした。少額預金者が増えると、銀行のリソースも増えた。でもそんなにたくさん少額の顧客がいると、開設手続きをすばやくする必要があったので、どうしても必要になったのが……。

7.簡単な融資審査

バンク・オブ・イタリーの口座で必要な書類作業は、他の銀行よりはるかに単純だった。特に地震と火事の後では、ときには握手だけでよかった。ジャンニーニはときには、書類も信用審査もなしに知り合いに融資した。支店長たちは、ただの数字以外のものに基づいて融資する権限があった。その人物の人柄も考慮できる。でも親切な職員がいても、言っていることを理解してもらえないと話にならないので、どうしても必要になったのが……。

8.多言語の窓口係

こうした新規顧客の多くは移民であまり英語がしゃべれなかった。バンク・オブ・イタリーには顧客の母語をしゃべれる窓口係がいた。でも鉄格子とガラスの向こうの人と話すのはむずかしい――それにおっかない――ので、どうしても必要になったのが……。

■住宅ローンを先がけて開始

9.開放型のフロアプラン

バンク・オブ・イタリーの支店の中は開放的で親しみやすかった。窓口係やマネージャーは、鉄格子の向こうにいたり、特別フロアに鎮座していたりはせず、すぐそこにいた。A・Pはいつも自分のデスクを銀行のいちばん前に出していた。親しみやすい場所でみんなが訪れたがったし、しょっちゅう来たから、どうしても必要になったのが……。

10.開店時間の延長

バンク・オブ・イタリーは、人々の生活にあわせた開店時間にしていた。ほとんどの働く人々は、通常の銀行の開店時間には仕事をしているから、ジャンニーニは顧客のスケジュールにあわせた。バンク・オブ・イタリーが1907年8月1日に初の店舗を開店したとき、夕方にも日曜日にも開業していた。口座を持つ家族が実に多くなったので、彼らはほとんどの家族が持つ最も重要な資産を考慮せざるを得ず、提供がどうしても必要になったのが……。

11.住宅ローン

バンク・オブ・イタリーは、それが当たり前になる以前から人々の住宅を抵当にお金を貸した。これは新規の住宅購入者に役立っただけでなく、不動産関連事業の建設業者から家具屋まで万人にとって有益で、そういう人もバンク・オブ・イタリーの顧客だった。住宅担保融資があまりに成功したので、じきに手を広げたのが…… 。

■買収によって地元の知識と即戦力を得た

12.自動車ローン

人々が豊かになると、自分の足がほしくなる。バンク・オブ・イタリーは自動車ローンを初めて開始し、さらにカーディーラーにも融資したので、需要をさらに後押しすることになった。自動車は担保価値のある資産だけれど、急速に減価償却するので、融資はほとんどが借り手の人柄に依存したものとなる。バンク・オブ・イタリーは、資産ではなく借り手を見て融資をする方法を編み出したので、そのために提供がどうしても必要になったのが……。

13.割賦融資

銀行としては過激だったが、個人にとっては人生を一変させるものだった割賦融資で、人々は不測の事態になっても高利貸しに頼らずにすむことになった。これは大量の善意を作り出し、それがさらにバンク・オブ・イタリーの成長を後押ししたので、どうしても必要になったのが……。

14.急速拡大

こうしたイノベーションすべての複合効果として、急速に拡大する必要が出てきた。バンク・オブ・イタリーはときに新しい銀行を作ったが、むしろ他の銀行を買収したがった。これで地元の知識とすぐに働ける人材とが手に入る。でもこんなにたくさん新しい銀行を追加したおかげで、彼らは最も強力な要素かもしれないものを開発せざるを得なかった。それが……。

■従業員に自社株を持たせることで支配権を守った

15.支店営業の銀行

特定地域につながった銀行業はリスクが大きい――その地域全体に大惨事がふりかかれば、不良債権の山ができる。一方、複数の地域で営業すると、すさまじい効率性が得られる。安定した地域は貯蓄過剰になり、成長地域は需要過剰だ。ある農業地域は不作で、別のところは豊作かもしれない。支店方式の銀行システムは、こうした力をバランスさせた。これは単一銀行ではできないことだし、巨大会社の金融的な力を最小の町にまでもたらした。

支店銀行方式はあまりに財務的に優れていたので、バンク・オブ・イタリーは狂ったように買収を続けた。町を見つけ、銀行を買収し、そして自社のイノベーションスタックを適用する。それだけの拡大の資金を得るため、作り出すのがどうしても必要だったのが……。

16.所有権の分散

この急成長は巨大資本を必要とした。バンク・オブ・イタリーは、ごくわずかな株式をたくさんの人に販売する方法の先鞭をつけて、従業員にも顧客にもインスピレーションと富を与えた。A・Pは、だれか個人や機関が数パーセント以上の株式を持ってはいけないと固執した。これは自分自身も含む。おかげで資金調達は面倒になったが、トラブル時に単一の強力な存在から銀行を守ることにもなった。A・Pが作った機関は「小者」に奉仕するだけでなく、小者に所有させる機関でもあった。従業員が会社の一部を所有するのがカッコよくなる1世紀も前に、バンク・オブ・イタリーは人々に自社の株式を販売していたのだった。それでその人々が助かっただけでなく、この銀行の支配権を奪おうとした敵対勢力からも、この仕組みのおかげで幾度となく救われたのだった。

■今の「普通」はバンク・オブ・イタリーが作った

今の16カ条の相互関連した要素が退屈なほど当然に思えたのなら、それはあなたが1世紀前に育ったのではないからだ。当時はこれは過激なイノベーションだった。安全に貯蓄できて必要に応じて融資にアクセスできるのは、人生を変えるし国を造り上げる。ジャンニーニは、だれでも銀行を使えるようにしたことで、無謀で過激だと思われ、他の銀行家たちに毛嫌いされた。たぶんマティーニをたしなみつつの会食の席で、直接そう告げた人もいただろう。

今日ではほとんどあらゆる銀行がバンク・オブ・イタリーを真似て、バンク・オブ・イタリーは後にバンク・オブ・アメリカになったという事実は、起業家精神と包摂の威力を物語るものだ。起業家の臆面のなさとこだわりは、やがて産業をあまりに完全に支配してしまうので、もはや戦いが存在しなくなってしまう。

でもだまされてはいけない。今や普通と思われているものの多くは、劇的な始まりを持っていた。A・P・ジャンニーニの最初のイノベーションスタックは、今やほとんどの銀行のモデルだ。「小者」のための銀行を提供しようという活動の中で、ジャンニーニは世界最大の銀行を構築した。実は大物よりは「小者」のほうがずっとたくさんいるのだ。最も小規模で貧しい顧客にうまく奉仕できるイノベーションスタックを構築すれば、巨大市場への独占アクセスが得られる。

■バンク・オブ・イタリーとスクエアの共通点

ジャンニーニの体験は、何も知らない業界に飛び込もうという決断からして、うちのスクエアでの体験と驚くほど似ていた。どちらも選ばれた少数者に奉仕するよう設計された業界に入り込んだ。不正と臆病と濫用を目撃した。どうやってそれを直すか見当もつかなかった。でも部外者から見ても、いくつか基本的な問題はすぐにわかった。こちらのシステムは、それまで排除されていた人々を迎え入れ、さらには引き込まねばならない。だから反逆して作り直した。

会ったこともないこの人物の人生に、スクエアで生き抜いてきたこのパターンが繰り返されているのを見たとき、すべて筋が通って思えた。生きている人々の間でメンターが見つからなかったのも筋が通っている。というのもどの時点だろうと、革新的で、同時に成功している人はほんの数人しかいないからだ(そしてそういう人のだれかとコーヒーデートを取り付けるなんて冗談でも無理だ)。この種のメンターが、世界を一変させるビジネスと同じくらい珍しいのも当然だ。そうした人のほとんどがぼくの人生の間に生きていないのも当然だ。ほとんどの人が成功するのは他の成功した人々を真似たからだ。でもぼくはちがう道をたどった。

■新たな市場を生むことでイノベーションスタックが生まれる

ところが時代のレンズを逆転させれば、歴史書は成功した起業家の名前だらけだ。100年前に千人のイカレた人が何かを試したなら、成功した3人は知らぬ者のない存在となる。そして彼らは万人のために可能性を拓いてくれたので、みんなその人たちについてあれこれ書きたがる。それに、その連中は勝ち目のない戦いに勝ったので、お話としてもおもしろくなる。

ジム・マッケルビー『INNOVATION STACK だれにも真似できないビジネスを創る』(東洋館出版社)
ジム・マッケルビー『INNOVATION STACK だれにも真似できないビジネスを創る』(東洋館出版社)

どんな産業を見ても、このパターンは登場する。起業家が、市場のないところで旅を始める。その人物は一連の問題を解決せざるを得なくなって、それがイノベーションスタックになる。そのイノベーションスタックは、先行者利益とあいまって、さらにいくつかの手口ともあいまって、世界を変える企業を創り出す。

でも時代をさかのぼってみると、あまりにイノベーションスタックの事例が多すぎたので、ぼくは圧倒された。今やデータが少なすぎるどころか、多すぎる。問題はよい事例があまりに多い中からどれを選ぶか、というものになった。おかげで退屈な産業からのワクワクする例も選べるようになった。

何か対象を研究したければ、背景があまり派手でないほうがいい。あれこれドラマや爆発がないほうが、本当の影響が見やすくなる。そこで次の事例としては、歴史上で最も退屈な産業を検討してみよう。

1.この劇画はjimmckelvey.comにある。お望みならダウンロードして、ポップコーンを持ってくれば、この章の残りは飛ばしてくれて大丈夫。
2.これは9.11テロ後に空港のセキュリティが厳しくなる以前のことだ。
3.詳細はjimmckelvey.comに載せておくけれど、写真はなしだ。
4.Gerald Nash, A. P. Giannini and the Bank of America (Norman: University of Oklahoma Press, 1992).
5.ジャック・ドーシーは正式な資格を持ったマッサージセラピストだ。
6.Wild West, October 2016, p.22.
7.Marquis James and Bessie R. James. The Story of Bank of America: Biography of a Bank (Washington, DC: Beard Books, 1954), p.64.
8.The Story of Bank of America, p.83.

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ジム・マッケルビー スクエア共同創業者
1965年、ミズーリ州セントルイス生まれ。ワシントン大学経済学部、コンピューターサイエンス学部を卒業後、吹きガラスのインストラクターとして働く。2009年、マッサージセラピストのジャック・ドーシーとクレジットカード決済企業スクエアを共同設立する。2017年、セントルイス連邦準備銀行の独立取締役に任命される。

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(スクエア共同創業者 ジム・マッケルビー)

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