「オキシトシン=幸せホルモン」は人間では証明されていない…"脳科学"を持ち上げるメディアの罪深さ
プレジデントオンライン / 2022年2月2日 9時15分
※本稿は、斎藤環・佐藤優『なぜ人に会うのはつらいのか メンタルをすり減らさない38のヒント』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■「脳科学」=「全部お見通し」ではない
【斎藤】ふり返ってみれば、1990年代には心理学が席巻していて、ベストセラーも数多く生まれたわけです。ところが、2000年代に入って、精神分析をはじめとする心理学に対する信頼感がどんどん低下して、社会的なブームは凋落(ちょうらく)傾向となりました。そして、入れ替わるように起こったのが、「脳科学」ブームでした。とても分かりやすく人間の脳について語る人がテレビなどに登場するようになり、一気に人気を博しましたよね。もはや心について説明してもあまり相手にされないけれど、「脳がこうなっています」という説明は、大勢の人々の心に響くのだと思います。
【佐藤】心という掴みどころのない概念に比べて、脳の話は確かに「説得力」があるように感じられ、ある意味「そうなんだ」と安心できるところがあるかもしれません。
【斎藤】ただ、私に言わせれば、かつて心理学で語られていたことを、単に脳の話に置き換えているような話も、実は少なくないのです。
【佐藤】ひいき目に見ても、精神医療の領域に画期的な学問が登場したというのは、ちょっと買いかぶり過ぎだ、と。
【斎藤】もちろん、脳科学という学問自体がインチキだ、などと言うのではありません。「心と脳の関係」を突き詰めていくことには、大きな意義があります。ただし現状では、まだほとんど答えは出ていないんですよ。
【佐藤】それにもかかわらず、「全部お見通しだ」のように語るとしたら、問題ですね。
【斎藤】社会に対して大きな誤解を植えつけかねないという意味で、有害でさえあると思うのです。
■自分にとって不都合なことを「脳のせい」にできる
【佐藤】この学問が一般の日本人にこれほど急速に受け入れられ、ある意味信奉されている、言い方を変えるとこれほど需要があるのには、分かりやすさ、面白さの他にも、何か理由があるのでしょうか?
【斎藤】私は、脳が様々な問題を外在化する装置になっていることも大きいのではないかと思っています。
【佐藤】「外在化」とは?
【斎藤】自らにとって不都合な事象を認識した時に、それを心で受け止めようとすると、自分の内なる問題、自己責任になってしまうこともあるでしょう。しかし、脳のせいにすれば、それはまあ生まれつきなのだから自分の問題ではないんだ、ということにできる。そういう不思議な思考回路ができている感じがするのです。
【佐藤】自分がこんな人間なのは、自分をコントロールする脳内分泌物のせいだ。もっと言えば、そういう脳のつくりを遺伝させた親のせいだ。だから自分に責任はない、恨むべきなのは親なのだ――。
【斎藤】そういうことです。
■「気分の落ち込みは薬で操作すればいい」への疑問
【佐藤】それで、とりあえず心の平静は保てるかもしれません。他方、そのように問題を自分の外に置くことで、解決を遅らせたり、さらにこじらせたりする可能性もあるように感じます。
【斎藤】加えて、そうした考え方は、気分が落ち込んだりするのも脳の問題なのだから、サプリメント的に向精神薬を使って調整しましょう、といった脳の「操作主義」とも親和性が高いことも押さえておく必要があります。
【佐藤】上手に薬を投入してやれば、脳内分泌物がファインチューニングされて、心も平常に戻るだろう、と。
【斎藤】でも、それは精神薬に確かな効果があるという前提があって成り立つわけで、私は大いに疑問を抱いているのです。少なくとも、そのエビデンスについてのもっと踏み込んだ検証が必要だと思うのですが、そこがスルーされて、操作のノウハウだけがどんどん精緻(せいち)になっていく。
【佐藤】昔のラジオのように、微調整しながら聞こえるようにしましょう、というわけにはいきそうにない。脳は、そんなに簡単にはできていないということですね。
■「オキシトシンの効果」は人間では証明されていない
【斎藤】さきほども言いましたが、まだまだブラックボックスのまま、というのが正確だと思います。
今脳科学の名の下に語られていることを丸ごと信じている人には悪いのですが、いまだに人間の社会的・文化的行動を脳との関連で直接説明できた試しはないのです。せいぜいマウスなどを使った実験結果を、人間にもあてはめて類推している段階なんですよ。結構知られている言説で一つ例を挙げれば、オキシトシンというホルモンが脳内で分泌されると、人の社交性を高めるというお話。
【佐藤】「幸せホルモン」ですね。
【斎藤】そうです。恋人やペットと触れ合うと分泌され、不安や恐怖が減少したり、他者への信頼感が増したり、いいことずくめの「効果」があるというのを聞いたことがあると思います。でも、オキシトシンに動物の愛着行動を促進するエビデンスはあっても、人間については、はっきりした根拠はありません。
【佐藤】オキシトシンは「幸せホルモンだ」という本を読んだ人は、「えっ?」と思うのではないでしょうか。
【斎藤】斎藤環という精神科医が、ウケたいがために嘘をついている、と(笑)。しかし、それが事実なのです。にもかかわらず、専門家が既知のことであるかのように説明すると、みんながそれを信じ込んでしまう。
オキシトシンが、実際に人間にとっての「幸せホルモン」である可能性はあるのです。でも、現状では、残念ながら可能性でしかありません。
■「可能性がある」と「エビデンスが得られた」は違う
【佐藤】「こういう可能性がある」「期待がある」という状態と、明確なエビデンスが得られたという事実とは、はっきり分けて考える必要がある。これは、サイエンスのイロハです。
【斎藤】そこを飛び越えて、「すごい成果だ」「脳の研究は、もうここまで進んだのか」というふうに、幻想が際限なく拡散するという状況は、やはり問題だと思うのです。
【佐藤】かつて、捏造(ねつぞう)が露見して放映中止になった「健康番組」がありましたが、エビデンスが不確かな情報を流布して恥じないメディア状況は、あまり変わらないような気がします。
【斎藤】それも大変困ったことです。テレビをはじめとするメディアこそ、幻想を広げる道具になっていますから。
ともあれ、脳に関しては、その謎に取りついて、周囲にどんどん仮説を集積させているというのが現状なのです。
【佐藤】仮説を積み重ねていくという作業自体は、意味のあることです。ただし、例えばそこに反証主義的な手続きを導入して検討を加えていくといったことが、不断に行われる必要がある。仮説が公理のようになるとしたら、大きな間違いを犯すことになりかねません。
【斎藤】そういう冷静な視点をぜひ持っていただきたいというのが、私の切なる願いです。
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筑波大学教授
1961年、岩手県生まれ。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書に『社会的ひきこもり』、『中高年ひきこもり』、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』、『「社会的うつ病」の治し方』、『心を病んだらいけないの?』(與那覇潤との共著・小林秀雄賞)など多数。
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作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大矢壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(筑波大学教授 斎藤 環、作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)
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