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「NHK大河ドラマでは描きづらい」鶴岡八幡宮が明治維新の10日間余りに受けた痛恨の一撃

プレジデントオンライン / 2022年1月16日 18時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/tanukiphoto)

今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で繰り返し描かれることになる鶴岡八幡宮には知られざる歴史がある。歴史評論家の香原斗志さんは「鶴岡八幡宮はかつて神仏習合の寺だった。頼朝や義時が武運を祈ったのは神ではなかった。しかし、明治政府の廃仏毀釈で、仏塔などはすべて壊されてしまった」という——。

■鶴岡八幡宮は、かつて鶴岡八幡宮“寺”だった

鎌倉の鶴岡八幡宮は例年、およそ250万人もの人が初詣に押し寄せる。昨年は新型コロナウイルスの影響で少なかったが、携帯電話の位置情報を分析するAgoop社によれば、今年は元旦に訪れた人の数が対昨年比でほぼ2倍だったという。

もちろん、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響もあるだろう。鎌倉幕府とともに始まって、源頼朝はもとより、主人公の北条義時をはじめ多くの武士たちから厚く信仰されてきた鶴岡八幡宮は、鎌倉の武家社会の拠り所だった。まさに大河ドラマの舞台そのものだ。

参拝者たちは正面参道の大石段を登り、重要文化財に指定されている本宮(上宮)の楼門を仰ぎ、黒字に金の文字で「八幡宮」と書かれた扁額(へんがく)を目にして、遠い鎌倉殿の世に思いを馳せたことだろう。

この文字は京都の曼殊院の門跡、良恕入道(りょうじょにゅうどう)親王(1574〜1643)の書だという。良恕は後陽成天皇の弟とはいえ、仏道に進んだ僧侶。神社の扁額をなぜ僧侶に書かせたのだろうか。

実は、扁額のもとになった良恕の書には元来、「八幡宮寺」と4文字が記されていた。つまり鶴岡八幡宮は、かつては「鶴岡八幡宮寺」という寺だったのである。

■仏教の堂塔が立ち並ぶ景観は寺院そのもの

明治維新を迎える以前の鶴岡八幡宮寺を、門前の宝戒寺の住職だった静川慈潤の、明治45年(1912)の証言(『神仏分離史料 第三巻』より)にしたがって歩いてみると——。

三ノ鳥居を越え神橋をわたると左右に「放生池」がある。現在は源平池と通称されているこの池は、もとは捕まえた魚などを放って仏教の不殺放生の教えを表すものだったのだ。

往時の姿を残す「源平池」(画像=baggio4ever/CC BY 3.0/Wikimedia Commons)
往時の姿を残す「源平池」(画像=baggio4ever/CC BY 3.0/Wikimedia Commons)

池をすぎると中央寄り左に「仁王門」が建ち、門をくぐると左に「護摩堂」があって「五大尊像」が置かれ、その奥の「輪蔵」には源実朝が中国から取り寄せた「元版一切経」が収蔵され、「四天王像」も安置されていた。

護摩堂と向き合って右側には大きな「多宝塔」が建ち、その少し東南に建つ「鐘楼」には、正和5年(1316)の銘がある大きな梵鐘が釣られていた。

多宝塔と鐘楼の東北には「薬師堂(本地堂)」があって、「薬師三尊像」と「十二神将像」が鎮座。そして正面の大石段を登ると、本宮(上宮)の本殿前の右手には「六角堂」があって「聖観音像」が祀られ、左手の「愛染堂」には「愛染明王像」が置かれていた。

また、境内裏手の御谷(おやつ)とよばれる場所には、鎌倉時代には二十五菩薩にちなんだ二十五坊、つまり神社に奉仕する供僧(ぐそう)や、そのトップである別当の宿坊が並んでいた。彼らは神主よりも地位が高く、江戸時代にも十二坊はあって、鶴岡八幡宮寺の庶務を取り仕切っていたのだ。

■なぜかホームページには、個々の建物の説明がない

いわば鳥居や社殿こそあっても、その景観はほとんど仏教寺院のものだった。

境内に建ち並ぶ仏教の堂塔の数々は、実は、江戸時代の絵図には細かく描きこまれていて、たとえば享保17年(1732)の境内図などは、鶴岡八幡宮の公式ホームページにも掲載されている。だが、“神社のホームページ”には、個々の建物の説明は記されていない。

■明治政府にとって不都合だった神仏習合

なぜいま鶴岡八幡宮を歩いても、仏教につながるものをなにひとつ見ることができないのか。

日本では平安時代以来1000年にわたり、日本列島固有の神と大陸から伝わった仏教とが一体となって信仰されてきた。

だから江戸時代までは、神社の境内に神宮寺が置かれ、神前で読経が行われるのが当たり前だった。

かつては極端な話、神社の祭神がホトケであることも珍しくなかったが、明治維新を迎えると、新政府にとって神仏習合は不都合だった。

なぜなら、新しい政権は天皇親政を建前にしていて、その根拠に古事記や日本書紀の神話につながる神道を据えたかったからだ。つまり祭政一致を実現するために、神道に外来の仏教がくっついていては困るので、切り離そうとしたのだ。

こうして慶応4年(1868)3月28日、つまり江戸城が無血開城する前に、新政府はいわゆる神仏分離令(神仏判然令)を発して、神社から仏教色を排除することや、神社に仕える僧侶の復飾(還俗)を命じた。これが拡大解釈された結果、各地で寺や仏像、仏具などを破壊する廃仏毀釈(きしゃく)が巻き起こった。

■古木材にされ、鋳つぶされ、焼き捨てられ…

もちろん、鶴岡八幡宮寺も政府の方針から逃れることはできなかった。前出の静川慈潤によれば、明治2年(1869)に十二坊の社僧はみな復飾し、その後、神奈川県庁から「仏教関係の堂宇等を速に取除くべし」との再三の督促があって、「諸堂宇は十余日間に悉く破壊せられ、古木材として売払われました」とのこと。

薬師堂前にあった大塔も消失した。幕末~明治初期に撮影(撮影=フェリックス・ベアド 画像提供=あつぎ郷土博物館)
薬師堂前にあった大塔も消失した。幕末~明治初期に撮影(撮影=フェリックス・ベアド 画像提供=あつぎ郷土博物館)

わずか10日余りで、二束三文の古材になってしまったというのである。

特に十間四面の多宝塔は、大仏、大鳥居とならぶ鎌倉の三名物だったのに、容赦なく破壊された。その後、仁王門の仁王像は寿福寺(鎌倉市)に、薬師堂の薬師如来像や十二神将像は東京都あきる野市の新開院に、愛染堂の愛染明王像は五島美術館に、というように、各地で生きながらえている仏像や仏具もある。

一方で、徳川家光が寄進した梵鐘は鋳つぶされ、経蔵の元版一切経は浅草寺に保護されているが、ほかの経文はみな焼き捨てられたという。

■そもそも鶴岡八幡宮寺で神仏を切り離すことは不可能だった

だが、神仏を分離するもなにも、鶴岡八幡宮寺では最初から、神仏を切り離すことは不可能だった。

鶴岡八幡宮の歴史は、永承6年(1051)の前九年の役を前に、源頼義が戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請したことにはじまる。

そもそも石清水八幡宮の祭神は、仏教に守られた八幡神である八幡大菩薩で、創立したのも奈良の大安寺の行教という僧侶。その後も社僧を中心に運営された、神仏が一体となった根っからの宮寺だったのだ。

治承4年(1180)、鎌倉に入った頼朝は材木座海岸の近くから現在地に移し、施設を整備していった。続いて、従弟で後三条天皇の曾孫の円暁が別当として園城寺から呼び寄せられ、その後の鶴岡八幡宮寺と頼朝との関係はひもとくほどに、寺としての側面が強調される。

鶴岡八幡宮
写真=iStock.com/pisittar
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pisittar

■頻繁に繰り広げられた僧たちによる法会

文治元年(1185)2月13日には、頼朝は鎌倉中の僧を集め、大般若経30部を1日で転読する平家追討の祈祷を行った。

文治5年(1189)、亡き母を供養するために建てたのは五重塔であり、征夷大将軍を拝命した建久3年(1192)の正月には、元日から数日間、国家の隆盛を祈る修正会(しょうしょうえ)という法会を初めて行った。

その年の7月、勅使が頼朝に征夷大将軍の辞令を渡したのは、八幡宮の西の廊だった。この例からもわかるように、頼朝は鶴岡八幡宮を、都の内裏に見立てていたといわれる。そこで行われていた行事の多くは、創建当初からきわめて仏教色が強かったのだ。

大河ドラマの主人公の北条義時も、たびたびここで法会を行ったり、薬師堂を寄進したりしていた。承久3年(1221)、承久の変が起きると、100人の僧を集めて世上の無事を祈る大仁王会が行われている。

ちなみに、承久元年1月、3代将軍の実朝を境内で暗殺した2代将軍頼家の遺児の公卿は、その前々年に就任したばかりの八幡宮寺の別当だった。

■頼朝や義時が武運を祈ったのは「神」ではない

その後、たび重なる火災に見舞われながら、そのたびに復興され、神仏が習合した宮寺としての伝統は、源頼義が勧請して以来、明治維新を迎えるまで800年以上守られてきた。

鶴岡八幡宮のホームページには、「武士の都、鎌倉の文化の起点」であり、「源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く尊敬しておりました」「鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです」と書かれている。

実際、その通りなのだが、頼朝が「篤く尊敬」し、「東国社会の精神的中心」だった鶴岡八幡宮寺は、その景観も、信仰や精神の内実も、いまある鶴岡八幡宮とは大きく異なるものだった。

今日、鶴岡八幡宮に参詣し、頼朝や義時がひたすら“神”に武運を祈っていた姿を想像するなら、それは歴史への誤解につながってしまう。

明治新政府による神仏分離が、日本の歴史や文化をいったいどれだけ破壊したか。そのことを考えるたびに胸が痛むが、150年前に起きたことをなかったことにはできない。

神仏分離の大義名分だった政教一致は、遠い過去の目標にすぎない。そもそも、いまそれを志向すれば憲法に違反してしまう。

つまり、現在は神仏を分離すべき理由はどこにもないのだから、神仏の境界が極めて曖昧だという日本の文化、そして日本の宗教のおおらかさを、少しでも取り戻せないものだろうか。それができて初めて、日本の歴史は正しく理解されると思う。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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