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日本国憲法に「軍隊と戦争の放棄」という独立国家としてはあり得ない条文が盛り込まれた本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年5月24日 10時15分

昭和天皇と内閣総理大臣をはじめとした閣僚が署名した日本国憲法(写真=Ryo FUKAsawa/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

自民党は「現行憲法の自主的改正」を党是としており、岸田文雄首相は自民党の改憲案の早期実現を目指すと発言している。その前提には、日本国憲法はGHQに押しつけられたもので、日本人が自主的に制定した憲法ではないという考えがある。弁護士の堀新さんは「憲法のたたき台については、GHQによって『押しつけ』られた要素はある。ただ、それには相応の理由があることも踏まえるべきだろう」という――。

■憲法議論で多くの人が勘違いしていること

今年は日本国憲法が1947年に施行されてから75周年にあたります。さらにコロナ問題やウクライナ戦争などもあって、憲法のあり方についての議論が例年よりも盛んにおこなわれるようになっています。

ただ、憲法についての議論の中には、かなり乱暴で大ざっぱな印象論も混ざっていることは否定できません。

例えば「日本国憲法は国民の意向に関係ないGHQの『押しつけ』だった」とか「わずか1週間でアメリカ人たちが作った」とか、さらには「外国から押しつけられた憲法ではなく、日本国民の意思で自主憲法を制定しよう」などという声がよく聞かれます。

果たして日本国憲法は「押しつけ」だったのでしょうか。また、日本国民の意思が何も反映されずに制定されたのでしょうか。実際の経緯を確認してみましょう。

■「GHQ案=日本国憲法」ではない

まず結論から言ってしまうと、日本国憲法は、敗戦後の占領された日本で、GHQの作成した案をたたき台として、そこに日本側が修正や追加を行ったうえで制定されました。

このことからすれば、少なくとも最初の案については、多かれ少なかれGHQによって「押しつけ」られた要素があること自体は否定できないでしょう。

ただし実際の展開としては、GHQが作成して日本政府に与えた条文をそのまま日本語に翻訳して日本国憲法にしたというわけではないし、民意が反映されなかったというわけでもありません。

GHQの案に日本政府がある程度手を加え、さらに、1946年4月の日本初の男女平等選挙で選ばれた衆議院議員と(選挙の対象でない)貴族院議員が審議して、(GHQの意向に反しない限りにおいて、ですが)さまざまな修正を加えたうえで、現在の日本国憲法が完成したのです。

■そもそもなぜGHQが草案を作ったのか

そこで次の問題は、なぜ「押しつけられた」かということです。

この点、日本国憲法に批判的な論者から「憲法9条の戦争放棄で日本を非武装にするために押しつけたのだ」という主張が時々出てきますが、戦争放棄だけが問題だったのでしょうか。

そうだとすると、戦争放棄の部分だけ「押しつけ」して、それ以外の部分はすべて日本政府に任せる形で憲法案を作らせてチェックするという方法でも良かったはずですが、実際はそういう流れにはなりませんでした。

逆に考えてみましょう。仮にGHQが日本国憲法(の草案)を「押しつけ」することなく、当時の日本政府に新憲法を作るのを完全に任せていたら、どのようになっていたのでしょうか。

(当時の日本政府というのは、戦前・戦中から政界や官界にいた人々によって構成されていたことに注意してください。)

そこで、まず日本政府がどのように憲法を作る(改正する)つもりだったのかを確認していきましょう。

■民主主義体制を目指すために

細かい経緯は省略しますが、ポツダム宣言により日本で民主主義体制を確立させることが前提になっていたことから、敗戦後に日本政府は大日本帝国憲法の改正を検討することとなって、1945年10月、松本烝治(じょうじ)国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)を発足させました。

松本委員会の中でさまざまな憲法案が検討されたのですが、その一方で、政界・民間を問わずいろいろな立場の人々が、それぞれの観点で新憲法案を作成していきました。

この中でも重要なのが、民間の研究者たちによる「憲法研究会」というグループの案ですが、これは後で説明します。

■「天皇主権、軍隊の維持」はそのまま

1946年2月、松本委員長はGHQの反応を打診するために、「松本甲案」と呼ばれる案を提出しました。

これは大日本帝国憲法をそのままベースとしたうえで、部分的にだけ改正して対応するというもので、その全貌をここで紹介することはできませんが、例えば次のようになっていました。

第1条 大日本帝国憲法は萬世一系の天皇之を統治す(★変更なし)
第3条 天皇は至尊にして侵すへからす(★「神聖にして」を「至尊にして」に変更)
第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ(★変更なし)
第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ(★変更なし)
第6条 天皇は法律を裁可し其の公布及執行を命す(★変更なし)
第11条 天皇は軍を統帥す(★「陸海軍」を「軍」に変更)

■前憲法からまったく脱却できていない

その他、議会の権限を強化すること、軍に対する政府の統制を強化することなどの改正箇所もありました。

ただ、主権者は天皇のままであって国民ではなく、相変わらず「臣民」という時代錯誤な用語が用いられ、さらに現在は当然のこととされている「個人の尊厳」や「平等」や「基本的人権の不可侵」という発想もありませんでした。

自由や権利が基本的には「法律の範囲」でしか保障されないという点も従来通りでした。

この政府案がそのまま受け入れられていたとしたら、議会の権限がより強くなり(つまり、より「民主的」になり)、軍に対するシビリアンコントロールが強化されていたなどの点では、確かに従来よりはましになっていたでしょう。

ですが、相変わらず国民は天皇の臣下という立場であり、天皇が主権者のままで、権利の保障も不十分というひどい状態だったでしょう。

なお、これ以外にも松本委員会の中ではさまざまな案が発案されており、より改正の度合いが高い案もあるにはあったのですが(「臣民」という言葉を「国民」にしたり、平等原則を導入するなど)、いずれも「天皇が統治権を持つ」という発想から抜け出せていませんでした。

大日本帝国憲法発布式之図
大日本帝国憲法発布式之図(写真=Yurindo/Miyauchi Archives, Imperial Household Agency/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■昭和天皇を訴追しようとしていたオーストラリア

1946年2月にこの松本甲案の提出を受けたGHQは、これでは到底他の連合国を納得させることはできないと考えて、急いで自ら草案を作成するに至ったのです。

オーストラリアなどは昭和天皇を戦争犯罪人として訴追することを主張していましたが、アメリカ(とその傘下のGHQ)は、日本の統治と再建のためには昭和天皇を温存することが必要だと考えていました。

GHQとしては一刻も早く、民主主義や人権尊重などの観点で国際的にも通用するような新憲法を作成して、各国を納得させなければならない立場になっていたのでした。

日本国憲法の草案が非常に短期間で作成された背景には、このような事情があったのです。

■GHQが参考にした日本の民間案

GHQが草案を作成するにあたっては、諸外国の憲法だけでなく、日本の民間の憲法案も参考にされました。

この時に大きな影響を与えたとされるのは、高野岩三郎、森戸辰男、鈴木安蔵などの学者グループ「憲法研究会」が作成した案で、天皇主権(統治権)を完全に否定し、国民主権を明確に打ち出していたのでした。

一、日本国の統治権は日本国民より発す
一、天皇は国政をみずからせず国政の一切の最高責任者は内閣とす

さらにこの「憲法研究会」案では、松本甲案には存在しなかった、国民の平等、法律でも制限できない自由の保障、拷問の禁止なども明記されていました。

一、国民は法律の前に平等にして出生又は身分に基く一切の差別は之を廃止す
一、国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げる如何なる法令をも発布するを得ず
一、国民は拷問を加へらるることなし

付け加えると、この「憲法研究会」案では、現在の日本国憲法の25条(生存権)の原型となる次のような条項もあったのです。

一、国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す

これはGHQ案には反映されなかったものの、後に帝国議会での審議の際に議員たち(前述の憲法研究会のメンバーだった森戸辰男自身も議員となっていました)によって最終的に付け加えられて、憲法25条になりました(後述)。

■当時の政府案が問題だったからGHQ案ができた

以上のとおりで、「日本国憲法はGHQによって押しつけられた」という議論以前に、「当時の日本政府は、大日本帝国憲法を微修正した程度の古い発想の憲法案しか考えていなかった」ということこそが問題なのです。

「9条で戦争放棄をさせるためにGHQは自分の新憲法案を押しつけたのだ」などという意見が世間にあります。まるで戦争放棄の論点以外では当時の日本政府の憲法案の考え方に問題がなかったかのような意見ですが、決してそういうことではありません。

■「日本国憲法は1週間でできた」わけではない

このような経過で、GHQは、諸外国の憲法や日本の民間案などを参考にしたうえで、約1週間で自ら日本国憲法の草案を作成しまし、これを1946年2月に日本政府に交付しました。

日本政府はGHQ側と折衝しつつ、これにある程度の手を加えて日本語化したうえで3月に「憲法改正草案要綱」としてメディアに発表し、国民の知るところとなったわけです。

「日本国憲法は1週間でできた」と言われるのは、正確にはこのGHQの草案の段階の話です。

(このGHQの草案は、国会を一院制としたものであり、これを受け取った日本政府が手を加えて「憲法改正草案要綱」にしていく段階で二院制に変更されています)

日本政府はこの憲法改正草案を1946年6月に帝国議会に提出。約4カ月審議して、さらにさまざまな修正や追加が行われ、日本国憲法が完成するに至ったのです。

この憲法案を審議した帝国議会のうち衆議院は、1946年4月に日本初めての男女平等選挙で選ばれた議員によるものでした(ちなみに参議院はまだなく、帝国憲法下の貴族院がもう一つの議院として存在していました)。

国会議事堂
写真=iStock.com/istock-tonko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/istock-tonko

この選挙のときに国民は憲法案の報道発表を知ったうえで投票し、そうして選ばれた議員たちが検討しいろいろ修正も加えたうえで、最終的に現在の日本国憲法が作られたというわけです。

この議会の審議の過程では、いくつかの新たな条文が追加されました。日本側で追加した条文として特に有名なのは、25条の生存権と、17条の国家賠償請求権です。

■憲法に民意は反映されたのか否か

日本国憲法の誕生のプロセスでは、少なくとも男女平等の総選挙による衆議院議員の審議を受けているので、その限りでは民意が反映されていたことになります。

この点について「連合国の占領下だったのだから、国民の自由な意思が反映されたとはいえない」という意見もあります。そこで今度は、連合国の占領が終わった後の状況を確認してみましょう。

サンフランシスコ平和条約が1952年4月に発効して日本の占領が終わり独立が回復すると、憲法改正を目指す動きが政界で強まりした。

1955年に旧自由党と旧民主党の二つの保守政党が合同して自由民主党が誕生、時の鳩山一郎内閣は憲法改正を国民に強く訴えて1956年の第4回参議院選挙に臨みました。

しかしこの憲法改正を争点とした参議院選挙の結果、改憲派の議席は3分の2に満たなかったのです。

さらに1958年に岸信介内閣も憲法改正を強く訴えて第28回衆議院総選挙を戦ったものの、やはり3分の2の議席が得られず、改憲の動きは挫折したのでした。

このように見てみると、日本国憲法は、まず占領下の総選挙の民意で選ばれた国会によって審議を受けて制定され、さらに占領が終了した後、1956年の参議院選挙と1958年の衆議院総選挙の2回、憲法改正の是非について民意の洗礼を受けて現状維持が選択されたということになります。

少なくとも「今の憲法に日本国民の意思が反映されていない」という類いの主張には無理があることがわかると思います。

■同じ敗戦国のドイツと日本の違い

最後に、日本と同じ敗戦国だったドイツの憲法制定はどうだったのかを紹介しましょう。こちらは日本とはかなり異なった経緯をたどることになりました。

日本とドイツの状況の最も大きな違いは、終戦前までの統治機構が残っていたかどうかという点でしょう。

天皇や内閣制度、官僚機構が残って、占領軍がこれらを通じて間接的に統治したのが日本ですが、ドイツの場合は、もともとの統治機構(ナチドイツの政治体制)が消滅し、占領軍が直接統治するようになったのです。

いずれにしても新たな憲法が必要になりますから、占領軍の指示を受けて、ドイツ人の法律家や学者などから構成された委員会が選ばれ、憲法案をゼロから作成し占領軍と協議しながら「ドイツ連邦共和国基本法」を完成させたのです。

結果としては、終戦前に存在したナチの政府が完全消滅したドイツでは、ドイツ人が自主的な憲法案を作って占領軍と調整しつつ完成させました。

逆に終戦前までの政府が残った日本は、古い発想のまま憲法案を作ろうとしたために占領軍にダメ出しをされて、占領軍からたたき台を受け取って手を加えることになったのでした。

皮肉な話になりますが、古い政府体制が残った日本では、古い考えの憲法案を作ったために占領軍に受け入れられず、新たな案を与えられてやり直すことになった一方で、古い政府体制が消えたドイツは、それまでとはまったく違う発想で自主的に憲法を作ることになったというわけです。

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堀 新(ほり・しん)
弁護士
1963年生まれ。1987年、東京大学教養学部教養学科第三(相関社会科学)卒業。1987年、株式会社東芝入社、主に人事・労務部門で勤務。2001年~2003年、社団法人日本経済調査協議会に出向。2006年、司法試験に合格、2007年、最高裁判所司法研修所にて司法修習。2008年、弁護士登録。「明日の自由を守る若手弁護士の会」会員。主な著書に『13歳からの天皇制』(かもがわ出版)。

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(弁護士 堀 新)

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