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切手コレクションはすべて処分…74歳の漫画家・弘兼憲史が「手ぶら人生」に切り替えたワケ

プレジデントオンライン / 2022年6月11日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mdragan

定年後の人生を楽しむには、なにが重要なのか。『課長 島耕作』などで知られる漫画家の弘兼憲史さんは「『常識』という棚にしまったすべてのものを一度おろして、ひとつひとつ吟味してみるといい。たとえば私は切手のコレクションを処分することにした。処分方法は『郵便物に使う』。時間はかかるが、焦る必要もない」という――。

※本稿は、弘兼憲史『増補版 弘兼流 60歳からの手ぶら人生』(中公新書ラクレ)の「増補版のためのあとがき」を再編集したものです。

■2021年7月に「コロナ陽性」となった

『弘兼流 60歳からの手ぶら人生』を最初に出版してから5年が経ちました。僕は69歳から74歳に。今年(2022年)9月には75歳になり、ついに後期高齢者の仲間入りです。この5年の間にいろいろな変化もありました。そこでここからは、この5年のさまざまな変化について、思うままに記していきたいと思います。

まず大きな変化は、なんと言っても新型コロナです。このパンデミックは人の行動や距離感、仕事や学校など、今まで当たり前にあった多くのもののあり方を、大きく変えました。

2021年の7月、実は僕もこの病気にかかりました。いつものように仕事をしていると「あれ、ちょっと熱があるな」と感じ測ってみると最初は微熱でした。ところが、あれよあれよという間に38度7分まで上昇したのです。

たまたま知り合いからもらった簡易検査キットがありましたので、それをアシスタント全員にも配り、検査してみると僕だけが「陽性」でした。すぐに仕事場にいた全員に「今から2週間を休みにする」と言い渡し、解散。そして保健所に電話したのです。

ところが、保健所の返事は「そのまま自宅待機するように」。そういうものかなぁと思いつつ、簡易の検査キットですからどこまで信用していいのかわかりませんし、もし本当に陽性ならば、既往症はないものの年齢的に重症化しないとも限りません。

■74歳にして、人生で初めての入院生活

そこで、知り合いの医者に連絡すると「すぐに来てください」と言われ、翌日PCR検査を受けることに。すると、やはり結果は「陽性」。運が良いことに、その頃は病床に余裕がありましたので、即入院ということになりました。

ちなみに感染源がどこだったのかは、いまだに不明です。その少し前に連載漫画を担当している編集者4人と会食をしましたが、その4人は全員陰性でした。

ひとつ考えられるのは、僕は漫画のアイデアをファミレスなどで考える際、左手の人差し指をグッと噛むクセがあり、噛みダコができています。スーパーで買い物をするのが日課ですから、もしかしたら、指にウイルスが付着していて、そこから感染したのかもしれません。

スーパーでは、手に取った商品を吟味してから棚に戻す人が大勢いますからね。

いずれにせよ、74歳にして、人生で初めての入院生活が始まりました。

■入院生活はいつも以上に仕事がはかどった

といっても「闘病記」のようなものは書けません。処置が早く、咳が少し出るぐらいで、辛い思いはほとんどしませんでしたから。レムデシビルを4日間、点滴で投与してもらったせいか、高熱が続くこともなく、8日間で退院することができました。

入院中にやったことは、やはり仕事でした。運良く個室に入れましたので、たまっていたエッセイなどを一気に書き上げ、持って行ったアイデアノートもアイデアでいっぱいになりました。いつも以上に仕事がはかどったぐらいです。

ただ、ひとつだけ困ったのは、まったく匂いがしないこと。風邪とは違い、ちゃんと鼻が通っているのに、まったく匂いがしないのです。そこは差し入れOKの病院でしたから、心配した編集者が「何か差し入れしましょうか」と何度か病院まで足を運んでくれました。

そこで、おいしいうなぎ弁当など、いろいろとリクエストして差し入れてもらったのですが、匂いがしないせいで味もほとんどわからないのです。おかげで4キロほど痩せることができました。

退院後、匂いは1週間で戻りましたが、後遺症なのか頭髪がすっかり薄くなり、地肌が透けて見えるようになってしまいました。まぁ、もう70代なので構いませんが、これが若者や女性だったらショックは大きいでしょう。

ちなみに『会長 島耕作』で、彼が新型コロナにかかる話を描きましたが、あれは僕の実体験ではありません。知人の体験を取材し、描いたものです。あの漫画を読んだいろいろな人から「ほんとにコロナになったんですか?」と聞かれます。コロナになったのは事実ですが、描いたのは実体験ではないという、ややこしい話なのです。

■2008年のリーマンショックでは投資で大損した

こういった体験もあり考えたのは、「人生はスムーズにいかない」ということです。1947年生まれの僕は、これまで一度も戦争の経験がありません。1950年の朝鮮戦争や1965年のベトナム戦争はありましたが、それらは間接的な経験であり、「戦争体験」と呼ぶには乏しいものです。

ところが、そのまま大過なく人生を終えるかと思っていたら、2011年に東日本大震災があり、原発事故があり、今回の新型コロナのパンデミックがあり、ついでに言っておくと、2008年のリーマンショックの時には投資で大損もしてしまいました。「平穏無事」は誰もが望むことですが、そんな人生はありません。これも大きな経験のひとつとして、生きていくべきだと思っています。

それにコロナが悪いことばかりだったかと言えばそんなことはありません。パンデミックの歴史を振り返ってみても、コレラの大流行があったから下水道が発達したという側面があります。また、ペストがあったから、宗教に対する人々の猜疑心(さいぎしん)が増大し、それが宗教改革につながったという説もある。コロナに限らず、悪い面があれば良い面があるのは当然のこと。どんなことにも表面と裏面があります。

■「リモートワーク」がなくなることはなさそう

新型コロナでは「リモートワーク」が一般化しました。インターネットの普及とともに「これからはどこでも仕事ができるようになる」とずっと言われてきましたが、一部の職種を除き、まったく実現する気配がなかったのです。

ところが、コロナの大流行により、嫌々ながら始めてみると「これは悪くないぞ」という声がいろいろなところから上がりました。都会のサラリーマンはギュウギュウ詰めの満員電車に毎日ヘトヘトになりながら乗らなくてもよくなりましたし、雇う側も交通費を支給しなくても済むようになりました。

また、リモートになった会議は、無駄話がなくなり、参加者全員分のコピーが必要だった資料もメールなどで一斉送信すれば事足りるのです。これからは資料作りなどという無駄な仕事で新人社員の時間を削ることもありません。

もちろん、まだまだ現場に行くことが前提の仕事は多いですが、この流れが戻ることはないはずです。今後は仕事のやり方を設定する時、必ず「リモート」が前提になってくる。それは、現在は都心部に集中している人の暮らし方も変えるでしょう。「リモートできるか」「できないか」は職業や入る会社を選ぶ時の大きな選択肢のひとつになると思います。

■新型コロナで改めて気づいた日本人の特性

コロナ禍では、改めて日本人の真面目さや几帳面さなどにも気づかされました。ニュースで海外などの様子を見ていると、やはり罰則もないのにほとんどの人がマスクを着用し、ステイホームに徹することができるのは、特異な国だと思います。

コロナウイルスが流行しマスクをつけて歩く東京の人々
写真=iStock.com/rockdrigo68
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/rockdrigo68

これが理由かは定かではありませんが、世界に比べて、感染者数や死者数が爆発的に増えることはありませんでした。もちろん、この先どうなるかはわかりませんが、これは誇って良いことですし、次代につなげていくべきだと思います。

このコロナ禍がいつ終息するのか今のところわかりませんが、これから先も私たちはパンデミックという恐怖と闘っていくことになるでしょう。今回はたまたま新型コロナという致死率の低いウイルスでしたが、エボラ出血熱のような致死率が50%を超えるウイルスが世界中を襲うことだって、まったくありえない話ではありません。これからはそういう心構えで生きていくことが大切になってきます。

戦争、天災、犯罪など、さまざまなものと闘いながら、人類はいろいろなウイルスとも闘っていかなければなりません。そうやって人類はいろいろなものを相手にしながら、知恵を絞り、それを克服してきました。それが人類の歴史そのものだと思うのです。

■生きているうちに「100回」の目標

74歳ともなると、さすがに「あと何年生きるのだろうか」ということも考えるようになりました。

今、日本人男性の平均寿命はだいたい81歳です。そうすると僕の余生はあと6、7年。「6、7年でゴルフはあと何回やれるだろう」。ふと、そんなことを考えてみたのです。さすがに80歳を超えてゴルフをやることはないでしょうから、77歳か78歳ぐらいまでやるとしましょう。するとあと3、4年しかない。さすがにこれは焦ります。

そこで立てた目標が100回。今入会しているゴルフクラブのコースに「100回出よう」という目標を立てたわけです。

「3、4年で100回」というのはかなり大変です。月に2回行ったとしても年24回。そのペースだと4年でも96回ですから、100回に届きません。しかも他のゴルフコースにも行きたいですから、さらに目標は遠のく。そんなことを考えていると楽しくなってきてしまい、「我ながらおもしろい目標を立てたな」と。同様に「銀座の寿司店にあと何回行けるのか」とか自分なりに目標を立ててみるのもいいかもしれません。

100という数字に特に理由はありません。ただの思いつきです。ゴルフを始める人の最初の目標が、たいてい「スコアで100を切る」ですから、そんなところから思いついたのかもしれません。

晩年になり、桜の季節になると、「自分はあと何回桜を見られるのだろう」などと考える人も多いようですが、それに比べると「100」というのは数字が大きくて、何か良い気がします。そもそも桜を自分で咲かせることはできませんが、ゴルフへ行くかどうかは自分次第ですから、自分でコントロールできるところも良い。個人的にはなかなかおもしろい目標を考えたなと悦に入っているところです。

■僕が仕事を続ける理由

漫画家には定年がありません。なので、「弘兼さんはいつまで働くんですか」とか「引退についてはどう考えてますか」などと、本当によく聞かれます。その答えは「いつやめたっていい」。しかし、やめられない理由があります。

それがアシスタントのこと。もし、僕が漫画を描くのをやめたら、彼らが食いっぱぐれてしまいます。みんな60代後半や50代ですから、もう今さら潰しがききません。みんな、もういい年ですから、ローンを抱えていたり、養育費がかかったり、それぞれの事情を抱えています。ひとりの漫画家であると同時に、社員を抱えるプロダクションの社長でもありますから、そう簡単に「もうやめた」と言えないのが現状です。

もちろん、漫画を描くのが好きですから、やめてしまったら抜け殻になってしまうのではないかという思いもあります。社長としての責任感と漫画を描くのが好き、この2つが今でも漫画を描いている理由です。

もし、そういうすべての事情を取っ払って、好きなことができるとしたら……それでも漫画は描き続けるでしょうね。背景なども含めて、すべて自分で描ければ、もっともっと満足のいく漫画が描けると思うのです。やはりアシスタントが描いた絵には満足できないことが多いですし、連載漫画は締め切りがありますから書き直す時間もなく、どうしても「ええい、しょうがない!」と出してしまうことも珍しくありません。

よほど、ひどければ単行本になる時に直すこともありますが。自分ですべて描けるようになった時には週刊や隔週でなくても、月刊誌や季刊誌、あるいは年に一話だけどこかで発表する形でもいいかもしれません。もし、それが実現したら、週のうち3日は漫画を描き、2日はゴルフへ。結局そんなスケジュールになるんじゃないでしょうか。

■コレクションしていた切手を処分

この本を出版した当時には捨てられなかったものの処分を始めたのもこの5年間のことです。それが小学4年生の時から集めていた「切手」。同世代の人は覚えているかもしれませんが、当時ものすごい切手ブームがやってきたのです。

「見返り美人」の切手
※写真はイメージです(写真=iStock.com/traveler1116)

ブームに乗った僕は、正月になればもらったお年玉をつぎ込んで、「やったー! ついに『月と雁』を買ったぞ」などとやっていたものでした。「見返り美人」や「ビードロを吹く女」など、収集した人ならわかる有名どころも当然買いました。子どもながらに投資の意識もありましたから、「これは絶対値上がりするだろう」と買った切手が実際に値上がりすると嬉しいものでした。

ところが、当時3000円ぐらいまで値上がりした切手が、今もあまり変わっていないことを知ったのです。上がっていたとしてもせいぜい数十円程度。そこで一気に熱が覚めました。もちろん、コレクションの価値は値段だけではありませんが、今は切手収集が趣味ではありませんから、そうなると、持っていることにあまり意味がないのです。

ただ、どんなに古くなろうと額面通りの価値はあるわけですから、捨ててしまうのはもったいない。売るという方法もありますが、面倒だし、おもしろくありません。

そこで思いついたのが「使う」と言う方法。郵便物に貼り、普通に切手として使用するわけです。大人になってからシート買いした切手もたくさんありますから、それを1シート、郵便物にベターッと貼ります。1970年代ぐらいの古い切手がベタッと貼られた郵便物が突然届くのですから、もらったほうはビックリするでしょう。税理士のところには税務資料を郵送することが多いですから、「こいつバカか」と思われてるかもしれません。そんな反応を想像するのが楽しい。売るよりも僕にはよほどこっちのほうが有意義なのです。

すべて処分するには、しばらくかかるでしょうが、何も急ぐ理由はありません。楽しく処分する。そんな方法を考えるのも「手ぶら人生」の楽しみです。

■両親の死と安楽死

2020年12月、この本を出した頃には元気だった母親が、99歳でこの世を去りました。介護施設に入っていた時には、何度も「早く死にたい」と言っていました。それが本心だったのかどうかはわかりませんが、その言葉に、父親が死んだ時のことを思い出さずにはいられませんでした。

僕の父親は半年間の延命治療を受けています。僕は「痛みがあるなら早く逝かせてあげよう」と言いましたが、他の家族は「もっと生きさせてあげたい」と延命治療を望みました。「もっと生きさせてあげたい」というのは、父親のために言っているのでしょうが、本当にそれは父親のためなのか。僕は父親に延命治療をしてしまったことをずっと後悔しています。

本人の意思より家族の希望が優先されるのは、やはり家族のエゴではないでしょうか。それが両親の死を通じての僕の考えです。

世界に目を向けると2017年にはオーストラリアが、2021年にはスペイン、ニュージーランド、コロンビアが安楽死を合法化しました。人間には「生きる権利」があるのと同じように「死ぬ権利」があるという考えは、これからも日本を含め、もっと多くの国に認められていくことになるでしょう。

もちろん、クリアしなければならない課題は少なくありません。例えば、本人の意思が確認できないような病状の場合に誰が判断するのか。しかし、これらをクリアしなければ、この高齢化社会に対応できないところまで、もう世界はきているのです。

それと同時に僕は「介護園」のような施設も必要だと思っています。保育園のように、要介護者を一時的に預かる施設です。これがあれば、家族は介護のために仕事を辞める必要がありません。また、1日のうち数時間だけでも介護から離れる時間を作ることができれば、精神的な負担も軽減できるはずです。

誰もが明日にでも介護者や要介護者になる可能性があります。「安楽死」も「介護園」もすぐに必要だと僕は思います。

■「ネタになる」と思えば、悲しいことにも落ち込まない

いろいろなことがあった5年でしたが、当然ながら「落ち込まない」「くよくよしない」という僕の性格は変わりません。コロナの時も「入院生活とはどんなものだろう」と楽しみでしたし、匂いがしなくなった時も「おおっ、これがコロナか」と思いました。

尿管結石の時も、あまりの痛さに「なんだ、この痛さは!」と興奮しましたし、その時に初めて救急車に乗ったのですが、アシスタントにも一緒に乗ってもらい、「イタタタタタッ! そこも撮って! あっちも撮って!」と救急車の中の写真を撮ってもらいました。

もう50年近く漫画家を続けていますので、何かあると「これは漫画のネタになるかもしれないぞ」と思う身体になってしまっているのです。そう思うと創作意欲が湧き、ワクワクが止まりません。

「漫画のネタになるかも」というのは、ある種の「目標」でもあります。「漫画にしよう」と思った瞬間に、普通なら苦しいこと、悲しいことが「楽しいこと」「ワクワクすること」に変わる。だから、僕は落ち込んだり、くよくよしたりしないのです。

100回という目標も同じです。「死」というと悲しかったり重く受け止めてしまうかもしれませんが、「時間制限」と考えればいいのです。ゲームにもスポーツにも時間制限があります。それがあるからその中でどうすれば勝てるのか、考えて工夫する。そこに楽しさが生まれます。

「そんなふうに考えられるのは、漫画家という特殊な職業だからだ」と言う人もいますが、決してそうではありません。別に漫画家でなくとも、悲しいことがあった時に「これをどう話せば、あいつを喜ばせられるか」と考えることはできるはずです。これは、その人の根本的なものの考え方や見方なのです。

どんな経験でも必ず何かのためになり、役に立つ。何かのプラスになる。これが常に僕の根底にある考え方です。

■手ぶらの最後に常に持っておくべきもの

あとは、やはりこの年齢になったからか、もう自分ひとりの利益を考えることはありません。それをやることによって、どれだけ周りの利益になるか、どれだけ周りの役に立つか、ということを常に考えています。周りというのは多くの人でもいいし、誰かひとりのためでも構いません。もちろん、「この犬のために」だって構いません。それが目標になるし、生きる糧になります。

弘兼憲史『増補版 弘兼流 60歳からの手ぶら人生』(中公新書ラクレ)
弘兼憲史『増補版 弘兼流 60歳からの手ぶら人生』(中公新書ラクレ)

今は航空写真がありますから絶海の孤島なんてないのかもしれませんが、もしそんな島にひとりで漂着して、「それでも自分は漫画を描くか」と考えたことがあります。そうすると、やはり「おもしろい」と言ってくれる人がひとりでもいないと、「描く気にならないかなぁ」と思うのです。いくら漫画を描くのが好きだと言っても、喜んでくれる人がいなければ、その漫画が誰かの役に立っていると思えなければ、描くことはないと思います。

ただ、その島で死んだ後に、もし誰かが骨を発見してくれるのであれば、その人のために、洞窟の壁などに漫画を描いておくかもしれません。その人がクスッと笑ってくれるような漫画でも良いですし、人類が生き残るためのヒントを記した漫画でも構いません。

これからの人生を、楽に、楽しく生きていくために、「手ぶら」を目指すことも必要です。ただし、「目標」や「生きる糧」だけは常に手放さないように。そして、自分にとってのそれが何なのかは常に考えておくようにしてください。

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弘兼 憲史(ひろかね・けんし)
漫画家
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)に入社。74年に漫画家デビュー。作品に『人間交差点』『課長 島耕作』『黄昏流星群』など。島耕作シリーズは「モーニング」にて現在『会長 島耕作』として連載中。2007年紫綬褒章を受章。

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(漫画家 弘兼 憲史)

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