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こんなに仕事ができないとは思わなかった…NHKアナウンサーが53歳で転職してぶち当たった辛い現実

プレジデントオンライン / 2022年6月4日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Di_Studio

NHKアナウンサーだった内多勝康さんは、53歳のとき、以前から関心のあった福祉分野に転職した。「仕事」と「やりがい」のバランスをとるための転職だったが、新天地ではまったく仕事ができず、怒られるばかりの日々。内多さんは「自分自身がこんなに仕事ができないとは思わなかった」と振り返る。『53歳の新人 NHKアナウンサーだった僕の転職』(新潮社)より一部を抜粋して紹介する――。

■エクセルもパワーポイントも全くできなかった

実は僕は、ほとんどパソコンが使えませんでした。これは、事務を担う者としては致命的で、職場にとっては欠陥品が納入されたようなものでした。決して大げさに言っているのではなく、この件に関しては、僕はまさしくポンコツでした。

かろうじて、ワードはできました。NHKで仕事をしているうちは、ワードで文字が打てればコメントが書けるし、罫線が引ければ番組作りの際の構成表を作ることができます。それで十分、仕事になっていました。

「ワードだけで逃げ切れそうだ」と安心し、油断していました。その結果、僕は、エクセルもパワーポイントも全くできませんでした。それなのに、事務を担うハウスマネージャーになろうだなんて、今になってみればお恥ずかしい限り。滑舌の悪いアナウンサーみたいなもんです。

言い訳をするつもりはありませんが、僕もエクセルをいじったことくらいはありました。でも、ワードの感覚で入力しようとすると、文字が枠からはみ出したり隠れてしまったり、余計な操作をすると別の枠に飛んでしまったりで、一人で頭にくることもしばしば。「もう、なんなんだ!」とイライラ、イライラします。

短気な僕は早々に三行半を突きつけ、ワードのもとへ戻っていきました。エクセルに軽く浮気したことを悔い改め、ワードと一生を共にすることを固く決意することになったというわけです。いわんや、パワーポイントとは出会うことすらありませんでした。

そんな状態の男ですから、役に立つわけがありません。

■常に誰かに助けを借りないといけない「半人前」の有様

何ができないって、会議に提出する資料が自力で作れません。お手上げです。会議のたびに常に誰かに助けを借りないと仕事にならない半人前の有様。一人前の仕事がこなせない情けなさに苛まれる日々でした。

しかも、会議は次々と開かれます。もみじの家の現場関係者で行う「コア会議」、病院長や看護部長を交えた「定例会」のほか、「企画戦略会議」「顧問会議」「運営委員会」……。そのたびに苛まれてしまうわけですので、結構へこみました。

今でこそ、どのタイミングでどんな会議があるかわかっているので前もって準備が出来ますが、当時は例えばこんな感じでした。

急に「来月顧問会議があるから資料を準備してください」とメールがきます。藪から棒の話に面食らって「え? それ何ですか?」と聞きに行きますが、「いやいや、だから、成育の外部顧問の先生方が集まる会議に出す資料が必要だから整理して」と返ってきます。

■しまいには「これじゃダメだ」と烙印を押された

ところが、そもそも、その顧問会議とやらに出す資料に何が必要なのかということがわかりません。そこでまた質問すると、もみじの家の初年度の資料だから、まず開設までの背景が大事で、なぜもみじの家が必要なのかとか、どうして今、医療的ケア児が増えていて、どんなに家族が困っているのかといった情報をスライドにまとめるように言われます。そう説明されて初めて、あぁ、なるほどなって思いますが、事務方の勘所がない僕は言われなきゃわからないことだらけ。

そう言われて自分なりに必死に資料を作っても、スキル不足で最低限の体裁さえ整わないため、繰り返しやり直しを指示されます。

何度やっても目覚ましい改善が見られず、しまいには「これじゃダメだ」と烙印を押され、パソコンを器用に操る人に代わりに資料を作ってもらわなければならなくなります。屈辱です。自分は全然役に立っていないということを日々、痛いぐらいに思い知らされました。

■死ぬまでに一つでいいから「きれいなグラフ」を書いてみたい

だから、そんな僕が、まさかエクセルでグラフを書き、それをパワーポイントにコピーして、あろうことか一人でプレゼン資料をまとめてしまう日が来ようとは、お釈迦様でも知らなかったでしょうし、誰よりも自分自身がビックリ仰天です。

エクセルの文字入力に慣れてきた頃でも、さすがにグラフを書くレベルに上達するのは絶対無理だと思っていました。いったいどうやれば、あんなきれいに色分けされた円グラフや、棒グラフと折れ線グラフが同居するデザインが仕上がるのか、まったく見当がつきません。あれは最上級クラスの技が必要に違いないと信じ込んでいましたので、軽々とグラフ入りの資料を提出する人たちを、僕はいつも尊敬のまなざしで見ていました。

「あんなきれいなグラフを、死ぬまでに一つでいいから書いてみたい」

これは少し大げさですが、それぐらいエクセルのグラフは僕にとって高嶺の花だったのです。

■「セルの書式設定」がわからない

スキルを身に着けるには、グーグルやヤフー質問箱に大変お世話になりましたが、慣れないうちは時間がかかってしょうがなかったです。

「エクセルで枠からはみ出ないようにするにはどうしたらいいですか」と質問すると、「セルの書式設定で『折り返して全体を表示する』を選択してください」と答えをもらえます。でも、セルは辛うじてわかるものの、「書式設定」がわかりません。

オフィスでノートパソコンを見る男性
写真=iStock.com/RRice1981
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RRice1981

そこでまた「セルの書式設定とはどうやるんだ」と聞くと「書式設定ダイアログボックスを表示してください」との答え。今度は「その、ダイアログボックスっていうのはなんなんだ!」「日本語で言えんのか!!」と画面に向かってキレます。そうこうするうちに終電の時刻が近づいてきて、慌てて駅に走るということがしょっちゅうでした。今となっては笑い話ですが、当時は本当に、そんなことの繰り返しでした。

そんな有様ですから、本来なら僕が整えるべき資料でも、最後は誰かに頼らなければなりません。思いだけが先走っても肝心のスキルがなければ、いつまでも役に立つことができず、誰かの足を引っ張ることになる。「お願いします」を繰り返しながら、資料を作ってもらう日々が続きました。

■勝手にグラフができあがる「魔法のキー」を見つけられた

それでも毎日毎日エクセルと格闘していると、少しずつでもいろいろなことを覚えることができるようになりました。そして、あの魔法のキーの存在を発見することになります。

「F11」です。

このキーを押すだけで、たちどころに素敵なグラフが勝手にできてしまうなんて……誰か、早く言ってよ! と感動しました。なんというありがたいキーでしょう。まるで自分が魔法使いになったような錯覚に陥りました。

あれこれクリックするうちに、グラフの色を変えてみたり、棒グラフから円グラフに変換してみたりと、次第にいろいろなパターンも使えるようになって、お陰様でスキルは格段に上達しました。

特別高度なことはできませんが、必要最低限のことなら一人でもできるようになって、我ながらあっぱれです。一度は別れたエクセルですが、今はおかげさまで良い関係が続いています。

■「年間事業計画」をまともに読んだこともなかった

それが縁で、パワーポイントという最高のパートナーとも出会えました。NHK時代は一切縁がなかったパワポさんですが、仲良くなってみれば、プレゼン資料を準備するのにこれ以上の相棒はありません。無料で使えるフリーイラストのサイトから画像をコピーして貼り付けたり、次のスライドへの切り替えの演出を変化させたりできるようになると、どんどん世界が広がっていきます。なかなか懐の深いヤツです。

ただ、パソコンのスキルは身についたとしても、僕が担うべき仕事をこなす実力を身につけるには、さらに時間が必要でした。

「もみじの家の年間事業計画」というものを立てる。それがハウスマネージャーの大切な役割の一つです。でも、自慢ではありませんが、今までそんなもの立てたことがありませんし、まともに読んだこともありません。

物事は計画通りにいくわけないのに、どうしてそんなものを作るんだろう。どちらかというと、僕はそう考えるタイプでした。あらかじめ決められた事にとらわれることなく、その都度ベストな仕事をすることに集中すればいいし、その方がいいパフォーマンスができる。そんな価値観で今までやってきたので、計画作成のノウハウなんて、これっぽっちも培われていないわけです。

でも、それが仕事ですから、やらなければなりません。

■「もう少し、責任を自覚してください」と怒られる

初年度の事業計画は、僕が着任する前にすでに立てられていて、ベースとなる収支見込もできていました。ところが、いざオープンしても、前述の通り、予想以上に子どもが来なかった期間が長く、当初の予定より収入が大幅に下がることが確実となりました。そこで、僕に指令が下ります。

「収入を下方修正して、まとめてください」

突然そんなこと言われても、その修正の仕方がわかりません。そもそも、基本的な収支の出し方がわかっていませんから、困ってしまいました。

しかも、まだ組織内の知り合いも数えるほどしかいませんでしたから、そういったことはどこの誰に聞きにいけばいいのかすらわかりません。一つのセクションでお金に関わるすべてがわかるということでもなさそうで、障害福祉サービス費の件はこっち、補助金関係はあっちで聞いてと、その都度、成育の建物内を上に行ったり下に降りたり、右往左往しなければなりません。いい運動にはなりましたが、当時はどこにいけばどんな情報が得られるのか、もうさっぱりでした(正直言うと、今でも完璧にはわかっていません)。

人脈がないというのは、孤独なもんです。新人の悲哀を感じました。そんな状況で満足な情報が手に入るわけはなく、提出する資料は内容がスカスカ。当然ながら、怒られます。

【上司】「もう少し、ハウスマネージャーとしての責任を自覚してください」

【僕】(……ガーン!)

■居眠りをして怒られた!

悪いことは重なるものです。

それは、ケアカンファレンスという会議での出来事でした。医師や看護師、ソーシャルワーカーなど、多職種が一堂に集まって、近々新たに利用を始める子どもたちの個々の病状やケアの注意点などを情報共有するのが、もみじの家のケアカンファレンスの目的です。

医療用語に関しても素人に毛が生えたようなレベルだった僕は、看護師たちが話している言葉がさっぱりわからないことが日常茶飯事でしたので、専門用語を学ぶ機会として参加していました。しかし、意気込みだけで太刀打ちできるほど甘い世界ではありません。

僕は自分のパソコンを持ち込んで、わからない言葉が出たら、その都度調べながら、会議に臨んでいましたが、聞いたことのない病名や難解な単語が次々と飛び出すだけでなく、ポンポンポンポンすさまじい速度で繰り出されるので、とても検索が追いつかず、戸惑うばかり。僕だけが意味を理解しない言葉が、右から左へただただ流れていきます。

すると、何が起きるかというと……次第に眠くなってくるんです。

もみじの家がオープンして1年位は、慣れない作業にてこずり夜遅くまで仕事をして、帰宅時間が23時を回ることもざらでした。睡眠時間も当然短かくなり、そんなヘトヘトなところにわからない言葉だらけの会議をされた日には、もう子守唄にしか聞こえません。

毎回、なんとかギリギリの線で踏みとどまっていましたが、ある日、カンファレンスの途中で……ついにやってしまいました。会議中に、しっかり眠っちゃったんです。もう、それこそオチるという感じです。押し寄せる睡魔に「これはいけない」と思いつつも、全然、何を言っているかわからないし、気づかぬうちに寝ていました。

クイック充電時間
写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

当然、会議の後、「なんで、会議中に寝てるんですか!?」とガッツリ怒られて、めちゃくちゃ絞られました。居眠りして怒られるなんて小学生並みです。情けないやら恥ずかしいやら……。

居眠り事件を筆頭に、とにかく怒られることが多くて、自分は新人なのでしょうがないと頭ではわかっていても、それはそれで、結構凹みます。この歳になって、こんなに怒られるなんて思わなかったし、上からも下からも怒られて、やっぱりちょっとしんどかったです。でも僕が至らないことが原因だから、我慢するしかない。すみません、と頭を下げて謝るしかないわけです。本当に凹みましたし……帰宅後の酒が進みました。

■50を過ぎて怒られて思うこと

NHK時代は、新人時代を除けば、そんなに怒られることはありませんでした。どちらかというと、番組スタッフから「ありがとうございます。内多さんのおかげです」的なことを言われることがほとんどでした。

もちろん、意見が対立して衝突したこともありますが、それはそれですごく大事なことだと思っています。僕が間違っていたこともあるし、僕の提案で良い方向に改善されたこともありました。それぞれの価値観を戦わせて、いい番組を作っていこうという現場ですから、それは問題ないんです。

でも、いい歳をして、頭ごなしに怒られることはないわけです。ここまで言われるのは、ヘマをして、もう100%自分が悪いとわかった上で、みんなの前で怒られた新人アナウンサー時代以来です。あの頃は20代前半だったので、30年ぶりにそんな羽目になりました。

内多勝康『53歳の新人 NHKアナウンサーだった僕の転職』(新潮社)
内多勝康『53歳の新人 NHKアナウンサーだった僕の転職』(新潮社)

50を過ぎてバッサリやられた。落ち込みます。やっぱりプライドが傷ついたんでしょうか……自分でも気づかないうちに、妙な自意識がついちゃってたんだと思います。

「転職するから、初心に戻ってがんばります!」と口では言っていましたが、骨の髄までそう思っていたかっていうと、そうでもなかったのかもしれません。やっぱり華やかなところでやっているうちに無意識に優越感が芽生えちゃったのか。そこを、ガツン! と叩き潰されたということです。

別に、元アナウンサーだろうと何だろうと、今の職場では関係ない。当たり前のことですが、厳しい現実を突き付けられた気持ちでした。それはまるで、慣れ親しんだ体質を、全く違うバージョンに切り替えるための儀式のようで、本当に「初心に戻る」には必要なプロセスだったのかもしれません。

こうした日々がなんだかんだ続くうち、たまにですが、体のこれまで痛んだことがないような場所に痛みを感じるようになりました。背中の変なところがズキズキすることがあって、ちょっと怖かった。なんだか得体の知れない痛みでした。幸い、元々頑丈なので、一晩眠ると治りました。

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内多 勝康(うちだ・かつやす)
国立成育医療研究センター「もみじの家」ハウスマネージャー
1963年生まれ。86年東京大学教育学部卒業、NHKにアナウンサーとして入局。大阪局、東京アナウンス室、名古屋局、仙台局などで勤務。「生活ほっとモーニング」「クローズアップ現代」「首都圏ネットワーク」などのキャスターを務める。在職中の2013年に社会福祉士の資格を取得。16年3月にNHKを退職し、「もみじの家」(http://home-from-home.jp/)ハウスマネージャーに。著書に『53歳の新人 NHKアナウンサーだった僕の転職』(新潮社)がある。

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(国立成育医療研究センター「もみじの家」ハウスマネージャー 内多 勝康)

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