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ソ連兵への「いけにえ」にされた女性は蔑視された…満蒙開拓団の少女が証言する「性接待」のやるせない記憶

プレジデントオンライン / 2023年8月1日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alexey_M

第2次世界大戦中、国策として満州に送り込まれた「満蒙開拓団」はソ連軍の進撃に遭った。特に女性たちは、ソ連兵の「女狩り」という性暴力の危険にさらされたという。女性史研究者・平井和子さんの『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)より、長野県から家族で開拓団に参加した女性のエピソードを紹介する――。

■満蒙開拓団の歴史に特化した唯一の博物館

わたしが北村(旧姓・澤)栄美さん(1934年生)と出会ったのは、2021年7月、満蒙開拓団を全国で最も多く送り出した長野県の下伊那に開設された満蒙開拓平和記念館を訪れたときだ。同記念館は、民間の寄付をもとに県や自治体が補助し2013年にオープンした、全国でも唯一の満蒙開拓に特化した民営の博物館である。

訪れた土曜日は開拓団関係者(「語り部」)による証言の日で、この日は、栄美さんが同記念館で初めて「語り部」をする日に当たった。長男の彰夫さん(1960年生)が質問をし、栄美さんが答えるという形で話が進み、会場の参加者が北村家にお邪魔して親子で交わされる語りに耳を傾けるかのようなほのぼのとしたムードとなった。

■「2人のよその団のひとがいけにえになってくれた」

途中、突然、彰夫さんが、「黒川開拓団のようなこと(岐阜県送出、ソ連側へ女性を提供するという苦渋の選択をし、近年沈黙を破ってサバイバー女性の2人が語り始めた)は無かったの?」という質問をされ、わたしは予想していなかった質問に身を乗り出した。栄美さんは、「うーん、黒川のようなことは……」と、ちょっと間を置き、「2人のよその団のひとがいけにえになってくれたの」と答えられた。「犠牲者」でもなく、「身代わり」でもなく、「いけにえ」という印象的な言葉を使われた。

講話終了後、一緒に訪問した友人とともに栄美さんを囲んで話をうかがった。女性を求めてやってくるソ連兵の姿が見えたら旗で合図をするのが子どもの役割だったこと、その様子を茶化す替え歌を子どもたちがつくっていたことを聞いた。栄美さんがその場で歌う「ロモーズの歌」を聞いたとき、鳥肌が立った。

■「女を出せ!」と家に入り込んできたソ連兵

2022年2月24日、ロシア軍がウクライナへ軍事侵攻して始まったロシア・ウクライナ戦争。栄美(以下、敬称略)は軍事侵攻を受け破壊された町の映像や、夫や父親と別れて国外へ避難する女・子どもの姿を見て、泣けて泣けて何日間か、食事も喉を通らなかった。そして、記憶の底に沈んでいた、ソ連兵の姿がまざまざと蘇ってきた。

それは初めてソ連兵を見たときだった。妹の千裕が百日咳で寝ている部屋へ、二人のソ連兵が編上靴のままダダッと入ってきた。「マダム、ダワイ!」(女を出せ!)と、布団をバッとめくったときに、妹が咳きこんで洗面器に血がまじったものを吐いたのを見て去った。

「あの時のやつだ!」と、テレビのロシア軍を見た瞬間に思い出した。「カッと見上げたら、こんな高いところにベルトがあって、鼻がこんなに長くて、ビー玉が2つあったのよ。緑色のビー玉」、「あの時のあいつと一緒だ」、と。忘れていたことも、何かの瞬間に思い出すことがある。栄美は戦火の下にある人々へ、「生きてくれー!」と心の中で叫んでいる。

■顔に墨塗りして男装しても、すぐに見破られた

8月22日、ソ連軍の使者が来団し、日本の敗戦を告げた。武器を取り上げ、本部付近の住民を集めて腕時計や紙幣などを掠奪して去った。翌日から、連日ソ連兵の掠奪や強姦が始まる。女性たちが顔に墨を塗って男装しても、彼らは服を脱がせて検分するのですぐに見破られた。

団で相談して、女性たちは日中、草原に潜伏することにした。栄美たち開拓団員は、ソ連兵のことを「ロモーズ」と呼んだ。彼らは、駐屯する清河鎮から大和坂を登って、日中に軍服姿で鉄砲を担ぎ馬を蹴立ててやってくるため、団ではその姿が見えると屋根の上に昇り旗をあげ、帰って行ったら旗を降ろすという合図を送ることにした。

ソ連兵の来襲の合図を受け、栄養失調で弱っていた赤ん坊を負ぶって草原に身を隠した母親が帰ってきて見てみたら背中の子は死んでいた、ということもあった。

穏やかな夕暮れが照らす草原
写真=iStock.com/Yuriy_Kulik
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuriy_Kulik

■命がけで女性を守った子どもたちのたくましさ

合図を送るのは子どもたちの役割で、我先にと屋根に上って旗の上げ下げを行った。命がけの日々にもかかわらず、「匪賊」やロモーズが帰ってしまえば、不思議なほどに、みな開き直って明るく、子どもたちは「軍隊小唄」(1939年)をもじって次のような替え歌さえつくった。

「ロモーズの歌」

今日も来る来る、ロモーズが/大和坂を馬で来る
女探しに来るのでしょ/おばさん、逃げる、その姿
ホントにホントにごくろうさん

子守や家畜の世話でほとんど学校へ通えなかった栄美にとって、敗戦は大きな転機となった。1944年、山で大けがをした父と父に付き添った母、さらに肋膜を病んだ兄が診療所へ入り、家を留守にしていた間、国民学校4年生だった栄美は、妹弟たちの食事の用意と、豚や馬、鶏の餌を炊くことで精いっぱいの日々だった。友達が学校へ行く間、栄美は1人でオオカミの出没する山へ「焚きもの」(薪)を採りに行かねばならない。学校へ行くどころではなかった。

■学校へ行かないと、両親が監獄へ入れられる?

そのようなある日、校長先生が狩りで栄美の家の近くを通ると知って嬉しくなり、庭を掃き、髪をとかして待ち、その姿を見つけて大声で挨拶し、丁寧なお辞儀をした。校長先生は、「おー、あまり学校を休んでばかりおると、お父さんとお母さんが監獄へ入れられるぞ」と言って通り過ぎた。「校長先生が言われることだから本当だ!」と思った栄美は、それ以来、恐怖の日々を過ごした。

敗戦の報が届いたと同時に、学校は閉鎖となった。「学校がなくなる。みんなも学校へ行けなくなる。私ばっかりじゃない」。誰にも言えずずっと胸に秘匿していた、父母が監獄へ連れて行かれるという恐怖から解放されて、やっと安心した。それ以降、みんなと気楽に遊べるようになった。「匪賊」が襲来しても、団のエライ人から「死ね」と言われても、みんなと同じでいられることは、栄美にとって嬉しいことであった。

■子どもたちは「生きるために平等」で団結し、協力し合う

敗戦になってから、それまで学校におった時には、できる子、できない子とか、いろいろ区別、差別があったじゃない。でもこの時になったら、いっさい、それがなかった。子どもたちが、ものすごくあっけらかんとして、たくましかったと思う。みんな、できることを何でもやる、ほいで、助ける。本当にあの時の子どもの団結力というのは、あれが本当の人間の姿なんじゃないかって。勉強は関係ないの。学校ないんだから、何もできない子も、いばっとった子もいざとなったら一緒になって遊べる。それから歌もつくった。

〔鍋墨を塗って〕黒い顔をしとっても、ボロを着とっても何もはずかしくない。今から思うとすがすがしい。

歌も歌うし、もう死ぬだけなんだし、日本へ帰りたいと思う暇もない。ただ、そこにある物を分け合って食べればいいんだ。ただ「ひたすら最後の一人まで戦って死ぬ」〔という団長たちの決定〕がなくなっとった(笑)。それは団のおじいさんたちが考えてくれたんだけど、女と子どもがやっぱり強かったと思う。あれが男がやっとったらおさまらん。

――ああ、すごい言葉ですね。

うん。ね。生きるっていうの。物を生み出すこともすべて女がやった。

学校へ行ける/行けない、勉強のできる/できないに関係なく、子どもたちは「生きるために平等」で、団結し、協力し合い、そのさまを栄美は、「今から思うと、すがすがしい」と言い切る。そして子どもたちは「最後の一人まで戦う」という団の男性たちが敗戦直後に下した悲壮な決断とは無縁の「生き延びる力」に満ちていた。

■「いけにえ」の2人が5日後に帰ってくると…

ソ連兵への女性の「提供」に関して、栄美は一般団員と同じく、「他の開拓団から2人の女性が、自らいけにえになってみんなを守ると申し出てくれた」と語る。

11月25日に本部にいた栄美は、校庭前に団員が集合し、団員号泣のなか二人をソ連側へ送り出した場には参加していない。しかし、『殉難の記』では5日後(栄美の記憶では約2週間後、「他の開拓団開拓団の西田」の妹・Rさんの記憶では3カ月後)に団へ帰されてきた2人を、こともあろうに団の内部から心無い言葉で迎える人たちがあったことはよく覚えている。

■開拓団の女性たち発した「卑劣」な言葉

これは、あの、いわゆる人間の性の恐ろしさだと私は思っとるの、なんていうの、中には、あの衆、いいことしてきたで、どやったね? 大きかったね? という人たちがいたの。そういう人も男の人には飢えとるの。わたしは子どもで意味がわからんのに、ものすっごく卑劣だ〔と思った〕。だってそんなところへ二人行くなんていいことじゃないじゃない。許せんなーと、その時は思った。

――それは女性が言うのですね?

女性が言うの。それは今、考えるんだけど、その人も、人間的に飢えとる、若い身体の女性が子どもだけ押し付けられて、ね。そいう言葉が出ても不思議ではないな。

――けど、今の時点では……

この人たちも悲しかったんだな。大人になって考えると、戦争のなかで出てきた問題なんだなと。

■「性接待」した女性は「汚れた女」と差別された

平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)
平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)

ソ連兵への「性接待」として提供された女性たちが、出されるときこそ感謝されたが、帰ってきた後は「汚れた女」として貶められ、差別的視線にさらされたという例はよく見られる。

性暴力の犠牲者へ差別的なまなざしを向けた者は男性に限らず、女性にもあったことが、この栄美の証言からもわかる。子どもの栄美はそれに対し「卑劣だ!」と怒りを覚えたが、年を重ねた現時点で振り返ってみると、そのような言葉を発した女性たちも、夫不在のなか独りで子どもの命を守らねばならない緊張した日々を生きていた。そのような辛い状況が言わせた言葉だと、年を重ねた現在の栄美は思っている。

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平井 和子(ひらい・かずこ)
女性史・ジェンダー史研究者
1955年広島市生まれ。立命館大学文学部卒業後、中学校、高等学校の教員を経て、1997年静岡大学教育学部社会科教育修士課程修了。2014年一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)。現在、一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員。専門分野は、近現代日本女性史・ジェンダー史、ジェンダー論。著書に『日本占領とジェンダー 米軍・売買春と日本女性たち』(有志舎)『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)がある。

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(女性史・ジェンダー史研究者 平井 和子)

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