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W不倫した母親は車のシガーソケットを強く押し付けられ…"最低"な母親が離婚後に見せた長女への異常な執着

プレジデントオンライン / 2023年8月12日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Favor_of_God

「父が被害者、母が最低なことをしているとわかっていた」。40代の長女は子供時代、「お前は山で拾ってきた子だ」「かわいそうな顔だな」などと嘲笑され、理不尽な量の家事手伝いを強要された。高校生の時、母親の不倫が原因で両親は離婚。不倫相手の家で暮らし始めたが、短大生になっても、社会人になっても、結婚して独立しても、長女は母親の監視や執着に悩まされ続けた――。(前編/全2回)
ある家庭では、ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。

■お嬢様育ちの母親

関西在住の桂木徹子さん(仮名・40代・既婚)の母親は、不動産業を営む裕福な家庭に育った。不動産業を営む祖父(母親の父親)の仕事は順調で、子どもの頃から母親はお金に困ったことがなかった。

「母は子どもの頃から、お金は欲しいと言えばもらえる。洋服は、オーダーメードが基本。しかも、1人で行って、ツケで作ってもらえる。習い事もたくさんしていたようで、中学から私立中学で、付属の大学まで通い、海外旅行もいろんな国へ行ったようです。留学をしたこともあるとか……。毎日の食事は、業者さんやお店から良い食材を家に届けてくれたり、値段を気にせず外食したり。3人きょうだいの末っ子で、祖父に甘やかされていたようです」

母親は現在68歳。この歳で海外留学を経験している人は少ないだろう。

桂木さんの両親は、母親が22歳、父親が27歳の時に旅行先で出会い、23歳、28歳の時に結婚。その約1年後に桂木さんが生まれ、8年後に妹が生まれた。

父親はごく一般的なサラリーマン家庭に育ち、自身はメーカーの営業マンだった。

「23歳で結婚してからは、基本、父の給料でやりくりしていたようですが、祖父母からの援助があったと思います。私が産まれた3年後、母が27歳の時に祖父が亡くなり、その2年後に祖母が亡くなった後は、遺産が入ったようです」

立て続けに両親を亡くし、母親は遺産としていくつかの不動産を得た。

「家賃収入が月に30万円くらい入ってきていたようで、生活は父の給料で回し、家賃収入は自分のお小遣いとして自由に使っていたのでしょう。私が幼い頃も、母は自分の服はオーダーメードで作っていたのを覚えています」

■両親は毒親

幼い頃から両親は、桂木さんにとても厳しかった。旅行に行く機会や食事、物は豊かに与えてもらったが、両親から褒められた記憶はほとんどなかった。

「幼稚園に入る前、3歳ごろでしょうか。よく怒られて、ベランダに閉め出されていました」

両親からは、事あるごとに、「お前は山で拾ってきた子だ」とか、「かわいそうな顔だな」などと言われ、嘲笑された。

幼稚園の運動会やお遊戯会では、「もっと目立て!」「シャキシャキ踊れ!」などと言われ、「かけっこが1番じゃないなんて、私と大違い!」などとダメ出しばかりされるため、桂木さんは親が観に来る行事が大嫌いだった。

「小学校に入ると、中学受験のための塾や、やりたくもないピアノや英語、スイミングなどの習い事を無理やりやらされて、友だちと遊ぶことやテレビを観ることなど、本当にやりたいことを我慢させられました。私は小学校の友だちたちと同じ中学が良かったのに……」

母親は、「あんな中学校に行ったら人生終わりだ」「勉強できない人間は悪」と断言し、桂木さんの友だちもその親もバカにし、小学校の教師たちのことも見下していた。

「私は人の悪口を言うのが嫌いだったので、『そんなことないよ』とかばうようなことを言うと、母は気が狂ったように怒って、『厳しく言うのは、あんたのためだからね!』と言い聞かされて生きてきました」

門限も厳しかった。たまに友だちと遊んで18時ごろに帰ると、家のドアに鍵がかかっていて入れない。ピンポンを鳴らしても、「いつまで遊んでるの!」と家の中から怒鳴られて、入れてもらえない。何度謝っても許してもらえず、2時間ほどしてようやく入れてもらうと、怒鳴られながら、身体の服などで隠れるような部分を何度も叩かれた。

結局、中学受験は不合格。地域の中学に入学し、吹奏楽部に入った桂木さんに母親は理解を示さず、「部活なんて役に立たん!」「何でそんなに練習しないといかんの?」と文句ばかり。中2になった桂木さんは、母親に文句を言われることに疲れてしまい、ついに部活を退部してしまった。

それでも、家に帰るのが嫌だった桂木さんは、「どうせ家に帰れば怒られるんだから一緒だ」と思い、わざと遅く家に帰るようになっていた。

しかし、母が頼む“お手伝い”は“絶対”だった。

「お風呂掃除、洗濯ものをたたむ、庭の草むしり、8歳下の妹の世話、食器洗い、お風呂を洗って沸かす、部屋の掃除、トイレ掃除、夕方以降の買い物は私の担当でした。祖父から受け継ぎ、母が管理している不動産の、家賃を受け取りに行かされたこともあります」

軍手をして庭の草むしり
写真=iStock.com/JohnAlexandr
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JohnAlexandr

母親に言わせれば、勉強やお手伝い以外は無駄ということだ。

「ただ、行儀がいい。あいさつができる。賞をとる。など、他人から褒められたときは、喜んでくれていました。それがうれしくて、頑張っていました。でも、ひどく怒られたときは、バットや物で殴られて、アザができたり腫れたりしたこともありました……」

一方父親は、自分の機嫌が悪いと、子どもや母親に当たる人だった。意味もなく説教してきたり、お酒を飲んでからんできたり、怒鳴ったりするため、夫婦げんかが絶えなかった。

「母が夕ご飯を、自分と私と同じ量を出すと、父は怒って、『子どもは少なくていい!』と母への説教が始まりました」

■離婚

桂木さんが中2になったあたりから、43歳の父親は単身赴任になり、土日しか帰ってこない生活が始まった。それからしばらくして、38歳の母親は夜8時ごろになると、自室にこもってどこかに電話していることが増えた。その間桂木さんは、6歳の妹の面倒を見ていた。

やがて桂木さんが中3になると、母親は夜7時ごろにどこかへ出かけて行くようになった。小学生の妹は連れて行ったり、置いて行ったりだった。

「子ども心に、どこに行ってるのかな? と不思議でしたが、聞かないほうがいいような雰囲気だったので、聞けませんでした」

そして桂木さんが高校に上がったある日、学校がテスト前の短縮授業のため午前中に終わり、友だちを連れて家に帰ると、見知らぬ車が家の前に止まっていた。家の中に入ると、母親が男性とリビングで話をしていた。相手は母親のママ友の夫だったため、桂木さんも面識があった。

一度バレてしまうと、母親は隠さなくなった。その男性が家に来ることや、「会ってくる」と言って出かけることが増える。

桂木さんが高2の夏休みが始まった頃のこと。2階の自室にいると、1階から誰かの怒鳴り声や誰かが暴れるような物音が聞こえてきた。桂木さんがおそるおそる降りていくと、単身赴任でいないはずの父親が母親の髪をつかみ、引きずり回していた。

とっさに桂木さんは、そばで立ちすくむ9歳の妹を連れ、2階に避難。その後も父親の怒鳴り声や母親の言い訳している声、ドタンバタンと足音や物音が聞こえてきたが、桂木さんは妹に聞かせてはいけないと思い、ドアをしっかりと閉め、妹の好きな音楽を流した。

「あの時、母を助けるべきだったのか、今でもふと思います。でも、母を助けると、父に私も共謀していると思われるのが嫌でした。私は高校生でしたから、父が被害者であることも、母が最低なことをしていることもわかっていましたから……」

突然父親が帰ってきたのは、母親の不倫相手の妻が探偵を雇って夫の不倫の事実を突き止め、父親に連絡したためだった。母親と不倫相手の妻はママ友同士。そのため父親と不倫相手も面識があった。

修羅場はしばらく続いた。

「家族4人で車で出かけなければならない日があったのですが、途中、運転する父が、怒りが抑えられなくなり、車のシガーソケットを母の顔に押し付け、火傷を負わせたこともあります。その後のことは、父が母にすることがあまりに恐怖で、記憶がありません……」

車のシガーソケット
写真=iStock.com/Vitalij Sova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Vitalij Sova

事態は収拾がつかないままだったが、父親は仕事のため、単身赴任先に戻らなければならない。母親は、父親が単身赴任先に戻ると、待ってましたとばかりに妹を連れて、逃げるように家を出た。その際、「ついてくる? どうする?」と聞かれたが、桂木さんは、目の前で現実に起こっていることを処理するのに頭が追いつかず、「バイトがあるから家にいる」と答えていた。すると母親は2万円だけ残し、出ていった。

残された桂木さんは、まるで1人暮らしのように友だちと遊んだり、バイトをしたりして過ごした。

しかし夏休みの終わりごろ、母親が家に帰ってきて、「学校や自分の必要な物だけ持ってきて! 新しい家に行くから!」と言った。

有無を言わさず連れて行かれた先は、母親と不倫相手が借りた家だった。

「両親は、かなりもめましたが、母の不動産をいくつか渡す条件で離婚したようです。子どものことでも少しもめたようですが、結局は母が親権を持つことに。私はその後も半年に一度くらい、父と会いました」

不倫相手の妻は、桂木さんの母親を相手に裁判を起こし、母親が慰謝料を払うことで決着。不倫相手の子どもの親権は妻のものとなり、養育費と慰謝料を払う形で離婚した。

「継父は、自分の子どもとは一切会わせてもらえなかったようです。離婚成立するまでの半年ほどは、家の中は微妙な雰囲気がありましたが、離婚が成立してからは、少しずつ家族らしくなっていったように思います。何より、母が前よりも幸せそうでした」

■家を出る

高校生になった桂木さんは、アルバイトを始めていた。母親からは、お昼代、ポケベルや携帯代、遊ぶお金などがもらえなかったからだ。

「高3の時は、逆に母に20万円を貸したこともあります。完全に自分のことは自分でしていました。家には一緒に住んでるだけでしたね」

100万円の札束を手渡す手元
写真=iStock.com/st-palette
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/st-palette

それでも、アルバイトや友だちと遊んでいて帰りが遅くなると、締め出しを食らい、何時間かして入れてもらった後は、必ず怒鳴られたり叩かれたりした。継父は実子のようにかわいがってくれたが、母親のすることを止めたりとがめたりはしてくれなかった。

高校を卒業すると、桂木さんは、美容師の専門学校に行きたかったが、母親からは「そんなところ行っても無駄! 大学か短大しか行かせないから!」と言われ、断念。短大の商業科に進み、卒業すると、旅行会社で事務の仕事に就いた。

成人しても、社会人になっても、母親からの監視や束縛は続いた。会社の飲み会があって、帰りが遅くなっても、締め出されたり、怒鳴られたり叩かれたりした。桂木さんはそれが嫌で、「1人暮らしをしてみたい」と言って母親に不動産屋についてきてもらい、そのまま部屋を決めると、念願の1人暮らしを始めることができた。

それから約1年後、友人の紹介で知り合った、5歳年上の自営業の男性との交際がスタート。1年半ほどして結婚が決まると、母親は、「結婚前に一度家に帰ってきなさい」と言う。桂木さんが「なんで?」と首をかしげると、「結婚前には親と一緒に住んで、実家から嫁に行くのが当たり前や!」と怒られた。

「今ならそんなの母の嘘だとわかりますが、当時は母に言われるまま、結婚前の半年間だけ実家に戻りました」

桂木さんは、24歳で結婚し、実家から電車で30〜40分のところで暮らし始める。

ようやく母親の監視や束縛から逃れたかと思いきや、母親は週1で実家に顔を出すことを強要。

「母が決めたスケジュール通りにしないと、何度も電話がかかってきて、気が狂ったように怒ってきます。私の予定を把握したがって、実家に行く度に次いつ来るか聞かれ、『何も用事がないなら来い!』と命令されていました」

結婚して家を出た娘に、異常なまでに執着する母親。そして、母親の命令を拒否すれば良いものの、従順に従い続ける娘。そこには歪な母娘関係、共依存関係が構築されていた。

(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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