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イヌでもネコでも金魚でもカメでもない…江戸時代の人たちがこぞって飼育していた意外な動物の名前

プレジデントオンライン / 2023年8月30日 13時15分

『養鼠玉のかけはし 上巻』より、ネズミが入ったカゴを持つ親子の姿(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸の人々はどんなことに関心があったのか。総合研究大学院大学名誉教授の池内了さんは「ネズミの飼育が盛んだった。とくに大坂ではネズミを交配させ、これまでにない珍しい模様のネズミを作ることがブームになっていた」という――。(第2回)

※本稿は、池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

■なぜ江戸時代の人たちはネズミをかわいがったのか

鼠は、一般に、人家に害を与えるので憎まれていたのだが、その姿や挙動の可愛いさもあって愛玩動物ともなっていた。鼠にもさまざまなタイプがあって、主には人家の周辺にたむろして台所の食べ物を狙ういわゆる「イエネズミ」(クマネズミ、ラットであるドブネズミ、マウスであるハツカネズミの3種)と、野外のみに棲息する「ノネズミ」(ハタネズミやアカネズミなど)がいる。

前者は貯食性・貯脂肪性が低いため、屋外の食物が不足するとヒト社会に入り込むが、後者はもっぱら畑の作物を食べていてヒト社会とはやや疎遠である。イエネズミは屋根裏の器物や衣類を齧ったり蔵の中の穀類を食べたりして広がった。もともと人間とは棲み分けしていたのだが、農業社会が発達するにつれ備蓄食料が増えたことから、鼠とヒト社会との接点が増え、鼠の生息圏が人間界にも及んできたのであった。

都市化が進行した室町時代頃から、鼠害が目立つようになった。御伽草子の『鼠の草紙絵巻』には、鼠捕り専用の仕掛けである「枡落し」のような鼠害対策のさまざまな工夫が描かれている。18世紀後半になってから発見された最も有効な鼠退治の方法は、ヒ素や黄燐、つまり「猫いらず」と呼ばれた薬を用いることであった。その薬は行商され、総称して「石見銀山」とも呼ばれたそうで、まさに銀山から採取された毒薬が使われ、鼠は駆除の対象でしかなかったのだ。

■吉祥の象徴として

ところが、戯文の冊子である『鼠共口上書』には、石見銀山から鼠への申出書と、鼠からの願出書が面白く書かれている。鼠にも言い分があるというわけだ。

また、害を及ぼす鼠もいるが、人に害を及ぼさない「コマネズミ」や「ナンキンネズミ」、人に富貴をもたらすとされた「福ネズミ」もいて可愛がられている。人々は鼠に対して愛憎半々であったのだ。

というのは、鼠は種類にもよるが、おおむね1年に4~6回、各回に4~7匹も子どもを産むので繁殖力が抜群であり、厳しい環境にも負けずに逞(たくま)しく生きる動物であるため、これを子孫繁栄・商売繁盛・家運興隆という吉祥の象徴として人々は大事にしたのであった。

『古事記』で大国主神(オホナムチ)の苦難を鼠が助けたという昔話から、鼠が大国(=大黒)の使者として大黒信仰に結びついたという説(そのためダイコクネズミと呼ばれる)もある。また、大黒は北方の神であり、北の方向は十二支の「子」にあたり、「子」は鼠であることから大黒天と結びつき、家に住む白鼠は富貴をもたらすとして大事にされた。

事実、台所に大黒天が祀まつられ、「甲子(きのえね)」の日には大黒天を祀る甲子祭が営まれていた。

■好まれたのは「奇品」

1750年頃には、女性の下半身の象徴として二股大根が描かれ、それを鼠が齧るという画像が流行った。夫婦和合・縁結び・子孫繁栄を表す吉祥画である。主人に忠実な番頭や奉公人のことを「白鼠」と呼んだのは、「番頭は鼠のごとし(「ちゅう〈忠〉」と鳴くから)」で、利に賢く主人を富ませるからというわけだ。

さて、いよいよ鼠の飼育・育種についての話に移ろう。明和年間(1764~72)以降、上方を中心にして白鼠の飼育が広がり、斑や月輪など毛色の変わった鼠が持て囃され、高値で取引された。

ここからは安田容子氏の論文「江戸時代後期上方における鼠飼育と奇品の産出」を参考にする。おそらく、鼠の飼育の入門書としては、『養鼠玉のかけはし』(春帆堂主人〈春木幸次〉、1775年)が最初である。

第3章で植物の変わった品種のことを「奇品」と言ったが、同書では毛色の変わった鼠や形・大きさの異なる鼠を「奇品」と呼んでいる。「養鼠家」によってさまざまな「奇品」が作出されたのである。

■大坂で起きた交配ブーム

大坂城代の家臣であった池田正樹が『難波噺』の1771年の項に、「当地(大坂)に白鼠を多く見かける。普通の鼠に地鼠を番わせれば白鼠を生ずるという。また、とらふ・紫・その他種々の毛色を生ずるも、皆つくったものである」と書いており、1773年の項では江戸と比較して大坂に白鼠が多いことを強調している。

黒い背景を持つかわいい白いペットのネズミの肖像画
写真=iStock.com/Caymia
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Caymia

江戸では人気がなかった白鼠の育種が大坂を中心に広がり、「奇品」づくりが熱心に行われていたらしい。

また、安永年間(1772~81)半ばに、暦算家であった西村遠里(1718~87)は随筆集『居行子(きよこうし)後篇』(1779年)で、「近頃、白鼠が多く出て、普通の鼠と変わらないくらいになっている。それに留まらず、熊鼠と名づけられた毛が真っ黒で、上品なものでは喉の下に白い月の輪があるものや、黒白斑のものも見られる。白鼠はもはや珍しくなく、値段も下がり、子どもの慰みものとなっているくらいだから、大黒天のお使いだと尊ぶ人もいなくなった。

元来、黒白の鼠は稀にしかいなかったというのに。世の中の人は、何につけても奇物や珍しいものを好んで弄ぶから、そのことについて巧みな者が、あちこちでその種を探し出して雌雄を交合させて増やしている。黒白の鼠を交合させて斑の鼠を作出するようになって以来、近頃ではたくさん作るようになっている。これは人の手によって、天地自然が造形した自然の働きを奪ってしまうものだ」と書いている。

彼は、「奇品」を作り出す世間の風潮が盛んになったことを、自然の営みを奪う行為だとして非難しているのである。

■飼育の対象はマウスではなくラット

そのような時代に、『養鼠玉のかけはし』が出版された。この書は序文の題が「養鼠訣序」、上巻が「養鼠訣上」となっており、鼠を飼育する秘訣の書というわけだ。当時一流の絵師と彫師および狂歌師が同書の制作に関与しており、鼠の飼育法が学べるとともに、絵本として楽しめるよう工夫されている。

上巻と下巻では以下のように内容が大きく異なっている。上巻は、鼠とその仲間の動物についての基本的な解説で、『本草綱目』に載っている「鼠類」だけでなくそこにはない「香鼠(麝香鼠)」を加え、「鼹(ゑん)鼠(ころもち)」と「鼩(きよ)鼱(せい)(はつかねずみ)」を『和漢三才図会』から引用している。なかなか博学である。

また、鼠は家につく害獣として「その害は少なくない」が、天下太平の時代になって人々の興味が金魚や小鳥や植物に移ると、鼠も愛玩の対象になったと言っている。作者の春帆堂主人は、白鼠を愛玩しているうちに、さまざまな奇品を作り出し、これを楽しむうちに特別な奇品も得たと誇らしげである。

飼育の対象がラットかマウスかを区別していないので明確ではないが、大きな鼠(「常の鼠」と呼ぶ)はラットと思われ、小さな鼠(「鼩鼱」は大きさ2寸〈約6センチ〉に及ばず、巣を出て20日経たった家鼠より小さいから「はつか」と呼んでいる)はマウスを指していると思われる。

愛玩の対象は「常の鼠」であったことから、飼育の対象はラットと考えてよさそうである。

■鼠の飼育の秘訣

下巻では、初心者を念頭において、よい鼠の選び方や繁殖のさせ方、食べ物や飼育籠の大きさなど、飼育方法を丁寧に記述している。鼠を馴らすことについては、「特別な方法があるわけではない。鼠は元来疑い深い動物だから、食べ物を与えて覚えさせてもだめで、所詮何かの拍子でうまくいくもので、ゆっくり時間をかけて馴れさせることだ。目が明かない幼い頃から養い、ともに遊んで人に慣れさせなければ手懐けるのはむずかしい」と書いている。

そして、鼠の飼育者を「よく養うことができたら、鼠は人の言うことを弁(わきま)え、こちらの気持ちを汲くんで使いをするようなこともできる」と励ましている。

挿絵には鼠販売店の主人が斑鼠の芸を見せる様子や、その小道具なども描かれていて、実際に人々も鼠に芸を仕込んで愛玩飼育していたことが想像できる。

また、鼠を買って帰る子どもの姿も添えられていることから、子どもたちが鼠を飼って愛玩することが流行っていたようだ。鼠を飼育することを「養鼠」、愛玩飼育している人を「養鼠家」と呼んでいたようで、この本の書き手や鼠屋の主人こそ「養鼠家」の玄人と言える。

読者には鼠飼育の初心者や子どもたちを想定していたようで、「幼い者が見やすいよう絵を交えており、これを楽しんで読むうちに飼育方法をよく考えるようになり、やがてこの書は不要になるだろう」と書いている。

■どこでネズミを手に入れていたのか

この本が刊行された頃は白鼠が手にいれやすくなっていて、売られていたのは上品だが、奇品とはされない目の赤いアルビノの白鼠だったと考えられる。まだ奇品の斑鼠は数が少ないので、簡単に手にいれられない。

『養鼠玉のかけはし 下巻』(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)
斑模様や鹿模様など『養鼠玉のかけはし 下巻』に描かれた珍しいネズミの画(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)

そこで、養鼠家の中でも好事家たちは、仲間内(連)の品評会などで互いのものを見せ合って情報交換を行い、奇品鼠の取引を行っていたらしい。

巻末に、品評会の場でもある「大坂鼠品売買所」として5つの店舗名が住所とともに掲げられている。そこでは、「常の鼠」である愛玩用の白鼠のみならず、「奇品鼠」にも値段をつけて販売を行っていたようだ。「奇品を得たいなら、この売買所において、その値段を決めるべき」と書いていることからわかる。

■価値が高かった6種類

同書では、白鼠の中でも目が黒いものが奇品とされているのだが、さらにそれ以外で次の5種類を挙げている。

「熊鼠」(同斑、熊の豆鼠):総体が真っ黒で、胸に熊のような月の輪がある。

「豆斑」(豆の斑、白の豆):約3センチほどの大きさ。2種類がある。

「斑鼠」(はちわれ、鹿斑):白黒の斑で、はちわれは頭から半身白黒と分かれているもの。鹿斑は大鼠で鹿のような模様がある。

「狐斑」:腹が白く尾は短い。狐色、玉子色、薄赤、藤色、かわらけ色などがある。

「とつそ」:丈が短く、尾も短く、顔は丸く、耳は小さく、鼻口部は丸く、毛並みが荒く、鳴き声が「ちっちっ」と聞こえる。

これらは、いずれも大坂近郊の養鼠家によって作出されたもので、大まかに、

①毛色の珍しいもの:熊鼠、斑鼠(斑、はちわれ、鹿の子)、狐鼠
②形や大きさが通常とは異なったもの:豆斑、とつそ

と分けられる。もっとも、後世の本に記載されていない品種もあり、奇品は一代限りなので、作り出されても維持する(同じ特徴の子孫を続ける)ことが困難であったようである。

■江戸の人たちの科学的好奇心

この書では奇品鼠について、「奇品の鼠が出る理由として、例えば白鼠に黒鼠をかけ合わせれば斑鼠が生まれると言うのは間違いである。奇品が生じるのは別の理由があり、自然に任せるしかない。奇品が生じるのは人間の技量の範囲ではなく、造化(天地自然)が引き起こす予想不可能な事柄である。だからこそ、値段が高く珍重することになる。

池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)
池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)

白鼠は白鼠と、斑鼠は斑鼠とかけ合わせるうちに、自然が感じ入って思いがけなく奇品が生じるものだ。以上のことがこれまで見聞してきたことで、つまるところこれこそが養鼠家の性根というものではないだろうか」とあって、奇品の作出は自然の成りゆきに任せるしかなく、養鼠家は奇品作成のための実験的なかけ合わせを行うべきではないと説いている。

実際には、養鼠家の多くはさまざまな毛色の鼠をかけ合わせて奇品の作出に取り組んでおり、この本の作者の意見は時代遅れであったようだ。

社会の趨勢としては、高価な奇品を作り出して一儲けしようとの欲望が強くなったとともに、親の形質が子どもにどのように伝わっていくかを調べてみたいという「科学」的好奇心に突き動かされる人が出ているからだ。

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池内 了(いけうち・さとる)
総合研究大学院大学名誉教授
総合研究大学院大学名誉教授。1944年、兵庫県生まれ。67年京都大学理学部卒、72年同大学院博士課程修了。72年京大理学部をはじめ、北大、東大、国立天文台、阪大、名大、早大、総研大と転籍してきた。著書に『ノーベル賞で語る現代物理学』『疑似科学入門』『科学を読む愉しみ』『司馬江漢』『江戸の宇宙論』(集英社新書)など。大佛次郎賞、講談社科学出版賞選考委員を務めた。

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(総合研究大学院大学名誉教授 池内 了)

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