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なぜマジメな人ほどメンタル不調になりやすいのか…「休む」をうまく実行できない人たちの共通点

プレジデントオンライン / 2023年8月29日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/simpson33

メンタル不調になりやすい人にはどんな特徴があるのか。心療内科医の鈴木裕介さんは「休むことに遠慮や罪悪感があり、限界まで休みたいと言い出せない。真面目な人ほど自分自身を追い込んでしまう傾向がある」という――。

※本稿は、鈴木裕介『心療内科医が教える本当の休み方』(アスコム)の一部を再編集したものです。

■真面目な人ほど、自分の心をすり減らす理由

自らの疲労、ダメージを自覚し、「休んだほうがいいかも」と気づいたとしても、「休む」を実行するには、そのための環境を確保しなければなりません。

つまり、振られた仕事や家事など、日々のやらなければいけないことの手を休め、休養のための時間を調達しないといけないのです。そのために、いま抱えている業務をほかの誰かに引き継いでもらうなど、周囲の協力が必要になってくるケースも多いでしょう。

しかし、素直に「自分が不調である」ということを第三者に伝えられる人が、どれだけいるでしょうか。

心配をさせたくない、迷惑をかけたくない、評価を下げたくない、スキを見せたくない、といったさまざまな心理が、「休みたい」と伝えることの障壁になってしまうのです。

相手が上司など自分を評価する立場の人であれば、仕事のうえで不利になるリスクが高まります。また、疲労が蓄積するほど思考力が下がるため、合理的な意思決定は困難になり、自己評価も下がるので、ますますヘルプを出すことが困難になります。

休職が必要なレベルにまで追い込まれていたとしても、「自らの限界を伝えヘルプを求める」というリスクを背負うぐらいだったら、このまま働き続けていたほうが精神的にラクだと思う人も少なくありません。

■なぜ「仕事を休みます」と言い出せないのか

「休む」ことを宣言するというのは、それほどまでに勇気が必要なことなのです。

精神科医の松本俊彦先生は「自分のつらい気持ちを打ち明けることは、『清水の舞台から飛び降りるほどの勇気』が必要なことである」と言っています。また、私のクリニックに来られたある方は、休職を打診したときにこうおっしゃっていました。

「ずっと気持ちを奮い立たせてきたから、いったん休んでしまうと切れてしまって、二度と今までのように頑張れないんじゃないかと不安なんです」

また、実際に休みに入っても、「働いていない」罪悪感から落ち着けなかったり、「役に立てていない」自分が許せずに、何か資格の勉強を取ろうとしたり、自分への怒りをつのらせて疲弊してしまう人も少なくありません。

「休みをきっかけに何かを変えないといけない気がする。このまま仕事に戻っても、また元通りになって、何度でも繰り返してしまう気がして、それが一番怖いんです」という不安を訴えた方もいました。

休むための環境を確保することは、甚大(じんだい)な心理的コストを必要とする技術なのです。この困難さに大きく関連する要因として「過剰適応」という概念があります。

これは、休むことにまつわる罪悪感とも大きく関わってきます。

■自分より、他者のニーズを優先させるから疲弊する

過剰適応とは、周りの環境に配慮し、他者に調和することを重視しすぎて常に気を張っている状態で、精神的にとても消耗しやすいのです。端的にいえば、「自らのニーズよりも、他者のニーズを満たすことを重視しすぎて疲弊していること」です。

「他者のニーズを満たす」というのは、親や教師、パートナー、友人、上司、部下など、周りの人や所属している組織、社会などから「こうしてほしい」と求められたこと、「このように生き、行動することが正解だ」とされていることを受け入れ、実行することです。

一方で、自分のニーズを満たすというのは、「これをしたい」「このように生き、行動したい」といった、自分の中にある欲求を知り、実行することです。

私たちは、他者や社会と関わらずに生きていくことはできません。社会的な関わりが欠如すると、不安は増し、心身の健康は失われます。また、社会的に排除され、自ら望まない孤独に苛(さいな)まれることは、人間の生命にとって破壊的なダメージを与えます。

共同体的なライフスタイルがどんどん解体に向かう現代において、孤独とは人類にとって立ち向かうべきもっとも大きな「敵」の一つかもしれません。

■遠慮や罪悪感を生み出す「過剰適応」

孤独を避けるという目的ではなくても、私たちが「社会の中で、より良い自分でいたい」という願いを持つことは自然なことです。ですから、社会で他者と共生している以上、ある程度他者のニーズを満たすことは必要不可欠なことだといえるでしょう。

まわりの人たちが求めていることを察知し、応えていくことで対外的な評価は高まりますし、人間関係における摩擦(まさつ)が生じるのを軽減し、安全を高めてくれます。誰かの役に立てることは、人生の生きがいや豊かさの源泉になりうるものです。

ただ、残念なことに、社会は私たちにとって必ずしも安全・安心な場所であるとは限りません。守られるべき自分の領域を侵害(ラインオーバー)され、他者のニーズによって一方的に振り回されること、傷つけられること、理不尽な要求をされることがしばしばあります。

あるいは逆に、他者への貢献に依存するかのように、自らの責任範囲を超えてまで他者の役に立とうとする人も決して少なくありません。そのような人にとって、自らのために「休むこと」は困難を極めることでしょう。

■周囲の期待、同僚の目線を気にしてはいけない

たとえば、みなさんの中に、次のような経験をしたことのある人はいませんか?

「周りの人からの期待に応えなければという気持ちが強く、自分の限界を超えて頑張ってしまうことがしばしばある」

「本当は休みをとりたいけれど、同僚の目が気になって休みがとりづらい」

「評価が下がるかもしれないといった不安や休むことに対する罪悪感があって、せっかく休みをとっても気持ちが落ち着かない」

「休みの日も、つい仕事のことを考えてしまう。あるいは、疲れていても、家族のために尽くさなければと思ったり、友人からの誘いに応じたりしてしまう」

平日は主に仕事で、会社や同僚、取引先といった他者のニーズに応え、休日は家族や恋人、友人といった他者のニーズに応える。そのような状態が続いているせいで、自分のニーズに応え、自分の心と身体の疲れを回復させるために時間を使うことができない。

こうした状態がまさに「過剰適応」です。

たとえるなら、砂漠にいて脱水しかけているのに、自分の分の飲み水を一切口にせずに他人にばかりあげているようなものです。そのような状態が続けば、人は必ず心身の調子を崩すようにできているのです。

■メンタル不調に陥りやすい人の“思い込み”

私のクリニックに相談に来られる方の中には、休むという選択をとることができず、限界に達するまで心身の疲れをためてしまった人もたくさんいました。

「あまりに忙しくて、とても休める状態じゃなかった」
「上司に、休むことを認めてもらえなかった」
「職場の雰囲気的に、休みをとりづらかった」

といった理由で休みをとれなかったというケースももちろんありましたが、それ以上に多かったのが、

「他者から期待されている」という思い
「自分がやらなければならない」という思い
「働いていない自分はダメだ」「人の役に立っていない自分はダメだ」という思い

など、「休みをとる自分を責めたり否定したりする気持ち」があるために、休むことができなかったというケースです。

カウンセリング
写真=iStock.com/Yue_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yue_

特に真面目な人ほど、他者のニーズを満たすことを優先させ、自分のケアを後回しにする傾向があります。それどころか、そもそも自分のニーズに目を向けることすらしない人も少なくありません。

そもそも労働とは、基本的に他人のニーズに応えることで価値を提供し、その対価としてお金をいただく、ということです。

与えられた社会的な役割を果たしていれば、居場所を得たり、生活を維持することはできます。しかし、そればかりだと、次第に「自分のニーズ」というものがわからなくなってきます。

「職場」というのは、人間関係にまつわる情報がとりわけ多い場所で、自分に合わないことや傷つくこと(デイリーハッスルズ)があっても、すべてに対処できませんし、そんな時間もなかなかとれません。

心をすり減らす環境に「感情が動かなくなる」ことで適応する

職場だけではありませんが、そのように傷つきの多い環境にいるとき、人はどうなっていくでしょうか。

次第に感情が動かなくなり、生活に生き生きとした現実味がなくなっていきます。あたかも脳に麻酔をかけるように、あらゆる痛みに鈍感になっていくのです。

これは生物が古来より身につけている、逆境に適応するために苦痛をやり過ごしていくための術(すべ)で、このような適応を「解離」といいます。実際に、脳の機能の一部が低下し、「私がいま、ここにいる」という感覚がぼやけ、心が麻痺し、自分と世界の間にうすく膜を張ったような感じになります。

こうなると、どれだけブラックな環境であっても、「つらい」と思わずに日々をやりすごすことができるのです。これは、生き延びるために生物が培ってきた非常にパワフルな生存戦略で、多かれ少なかれ、私たちはこの「解離」を駆使しながら日々を過ごしています。

解離について知ることは、ストレスや休むことを深く理解するために不可欠です。これも過剰適応の一つの表現型といっていいでしょう。

このようなモードに入ると、何が自分に負荷をかけているのかはっきりと把握できなくなり、延々と体力・気力を削(そ)がれ続け、しかもそこから離れようという強い意思を発揮することも難しくなります。

まさに「生ける屍(しかばね)」のような状態になってしまうのです。こうなると、もはや独力での解決はとても困難になります。

■「他者のニーズ」を切り離さなければ、心は休まらない

仮に休みがとれたとしても、そこに応えるべき「他者のニーズ」があるうちは、それを満たすのに手いっぱいになってしまいます。

たとえば、休職して実家に帰ったとしても、親から「ああしろこうしろ」と要求を突きつけられてしまい、それに応えることに終始してしまうような環境であれば、休めていることになりません。

ですから、そうなる前に、まずは他人が自分に向ける「要求」からしっかり離れる必要があります。

人は、あらゆる他者のニーズから一定の距離をおいてはじめて、「自分のニーズ」に関心を向けることができるようになります。そして、当然のことですが、自分のニーズがわからなければ、いつまでたっても自分のニーズと他人のニーズのバランスをとれるようにはなれません。

自らが「過剰適応」にならないですむ環境を確保することは、正しく休むために非常に重要な要素なのです。

■「レールから降りることの恐怖」が休む決断を妨げる

私はしばしば、心身の疲れが限界にまで達している人に、休職も含めた長期休暇が必要であることをお伝えするのですが、多くの方は長期休暇をとったり休職したりすることに対しても、恐怖感や抵抗感、罪悪感を持たれています。

それも当然のことです。先に述べたように「期待に応えなければという思い」や「人の役に立たなければという思い」に加え、「レールから降りることの恐怖」があるからです。

みなと同じように働いていること、与えられた役割をちゃんと果たしていることは「普通」のことであり、「普通」から逸脱しないでいられることが「安心」であり、それを守ることが「王道」の生き方であると信じている人はとても多いです。

ですから、そこから降りてしまうことには、ものすごく大きな恐怖が伴います。もう二度と戻れないのではないか、社会に不適合であるというレッテルを貼られてしまうのではないか、という不安がわくのです。

横断歩道を行き交う人々
写真=iStock.com/AzmanL
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AzmanL

ある方は、休職をすることの苦しさを、「明確な目標やノルマもない、まったくの未経験の分野への部署異動」にたとえていました。

身の置き所がない感じや疎外感。先が見えない感じや、朝起きたときに、のどのあたりが固くつまり、胸のあたりがもやもやとして苦しい感じ。

そうした不快感があると、人はどうするでしょうか。

休みが必要なのに、強迫的に何かをしようとしてしまいます。その代表例が、「誰かの役に立とうとすること」です。そのため、休暇・休職中も仕事のことを考えたり、資格取得のための勉強を始めたりする人が少なくありません。

他人より、自分を優先する時間を持つことが必要

どうしても「他者のニーズに応えること」から離れられない。それが「安心を得るため」の方法だからです。でも、それをしている限り、自分のニーズを見つけることは難しいでしょう。

私たちが、いつまでも社会と関わりながら、前向きに健康に生きていくためには、ときには他者のニーズに応えすぎるのをやめ、自分のニーズを満たすことに時間やエネルギーを使う必要があります。それができて初めて、私たちは本当の意味で心身を休め、疲れや心の傷を癒すことができるからです。

また、仕事をしていない時間が確保できているのに、「働けていない自分が許せない」と、怒りや恥の感覚を持ってしまう方も少なくありません。タスクをこなさずに休んでいることによって、枯渇したエネルギーは少しずつ回復しているのに、その回復分を「自分への怒り」で使い果たしてしまうのです。

せっかく怖い上司や嫌な仕事などのストレッサー(敵)から離れていても、「こんな自分が許せない」と、自分があらたな「敵」になってしまいます。そして、なけなしの抗ストレスホルモンを稼働させ、再び身体はストレス状態に入ってしまいます。

■「自分への怒り」が休むことを困難にしている

「動けない」ということは、「動きたくない」という身体のニーズがあるということなのですから、「動くべきではない」のです。

鈴木裕介『心療内科医が教える本当の休み方』(アスコム)
鈴木裕介『心療内科医が教える本当の休み方』(アスコム)

しかし、頭では「動くべきだ」「動かなければだめになってしまう」と思い込んでしまっているため、身体が本当に必要としていることを体現させてあげることができません。

こうした、休んでいる最中の「自分への怒り」まで含めたすべてが、休むことを困難にしている「一連の症状」であると言っても過言ではありません。

このような悪循環の構造に、まず気づいてあげることが重要です。

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鈴木 裕介(すずき・ゆうすけ)
内科医・心療内科医・産業医
2008年高知大学卒。内科医として高知県内の病院に勤務後、一般社団法人高知医療再生機構にて医療広報や若手医療職のメンタルヘルス支援などに従事。2015年よりハイズ株式会社に参画、コンサルタントとして経営視点から医療現場の環境改善に従事。2018年、「セーブポイント(安心の拠点)」をコンセプトとした秋葉原内科saveクリニックを高知時代の仲間と共に開業、院長に就任。著書に『我慢して生きるほど人生は長くない』(アスコム)などがある。

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(内科医・心療内科医・産業医 鈴木 裕介)

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